「ハリウッドのライオン」 ルイ・B・メイヤーの生涯と伝説 その12007年04月12日 00時58分56秒

ダンサーシリーズはちょっとお休み。

”Lion of Hollywood ; The Life and Legend of Louis B.Mayer”(Scott Eyman 著 2005年)という本を眺めていたら、アーサー・フリードについてまとめて触れている部分があったので訳してみました。彼とメイヤーとの関係がある程度わかります。
誤訳があれば失礼。



アーサー・フリードは1894年、サウスカロライナ州チャールストンに生まれ、後年、ナシオ・ハーブ・ブラウンとコンビを組み作詞家として成功する。トーキー映画の到来後まもなくMGMにはいった彼は、1933年までに早くもメイヤーとの信頼関係を深め、1930年代後半にはメイヤー家の朝食にいつも呼ばれるようになっていた。
  
 フリードの伝記作家ヒュー・フォルディンは言う。
「フリードはよくあるハリウッドのパーティー好きではなかった。彼はアイラ・ガーシュインやオスカーとドロシー・ハマースタインと親しく、メイヤーを非常にクリエイティヴな人物だと信じていた。その点ではサルバーグよりメイヤーをずっとかっていた。」

 フリードはオズの魔法使いを制作したいと思っていたが、メイヤーが筆頭プロデューサーにしたのはマーヴィン・ルロイだった。
 後にフリードは次のような不満をよく口にした。
「会社のために原作を手に入れたのも、配役を決めたのも私だ。ハロルド・アレンやE・Y・”イップ”ハーバーグ、ヴィクター・フレミングらを雇ったのも私だ。マーヴィン・ルロイの名前がクレジットに出ているのは最大のミステークだよ。」

 「虹のかなたへ」存続のために戦ったのもフリードである。”イップ”ハーバーグが後に語っているが、映画のテンポを上げるためこのナンバーを削ろうという話が出たとき、フリードはそれなら自分が会社をやめると言って脅した。

 「あまり劇映画くさくしないように」とのメイヤーの一言で、このシーンは残されることになった。

 オズの魔法使いはメイヤーシステムの典型例として、よくとりあげられる。

 案山子役のレイ・ボルジャーは言う。
 「驚いたのは、彼らは人を買ってくるということなんだ。食料品屋へ行ってこう言うようなもんだ。『面白いの四人と男のバレエダンサーを三人、それから女の子五人に男の歌手を五人くれ。性格俳優十九人と個性の強いのも少しばかりほしいね』。 買ってきたら棚に置いておくんだ。こうやって買っておいた天才たちがいなけりゃ、『オズの魔法使い』はできなかったろうね」。

 オズ撮影後メイヤーと朝食をとりながら、フリードはジュディ・ガーランドについて夢中になって話し始めた。
「仮に私がプロデューサーなら彼女に賭けますよ」
「いいだろうアーサー、その時期だ。いい本を見つけて映画を作りたまえ」

 プロデューサーとしてフリードの最初の映画は、ガーランドとルーニーを主役にすえた「青春一座」だった。1939年の中ごろに六十六日をかけてリハーサルと録音、撮影が行われ、制作費はちょうど七十四万五千三百四十一ドル。興行収益は三百三十万ドルにのぼり、名作ぞろいのその年にトップテンにはいるヒットを記録した。
 フリードの次回作は大学を舞台にしたミュージカル「グッド・ニュース」になるはずだった。しかし脚本が出来上がってみると、気に入らないできだった。
 メイヤーはガーシュインの曲”Strike up the Band” を使いオリジナルのミュージカルを作ったらどうかとフリードに助言した。「とても愛国的な響きじゃないか」とメイヤーは言った。彼特有の曖昧模糊とした言い方だが、フリードにはその言わんとするところがわかった。かくして大ヒット映画がもうひとつ生まれたのである。

 「フリードとメイヤーは一つの布地から裁断された二つの切れ端だ」と作曲家フランツ・ワックスマンの息子ジョン・ワックスマンは言う。「彼らはやり方を心得ている。最高の人たちを雇い、好きにさせておくんだ」

 シド・シャリースは言う。
 「アーサーはなんでもやったわ。L.B.がそれを承知していたのかは知らないけど。私を契約させたのもアーサーよ。ダンサーが必要だったとき、私がバレエ団出身なのを聞いたのね。出かけていってオーディションを受けたの。しばらく話した後で彼がこう言ったの。『七年契約はどうだい』『わからないわ』と答えると、『エージェントと連絡を取りなさい』って言うから、ナット・ゴールドストーンに会って、戻ってから契約したわ。」

 「その時までL.B.に会った事もなかったの。ナット・ゴールドストーンがディナーに出かけようって言ったんだけど、その相手がL.B.だったのよ。とってもやさしくて魅力的だったわ。でも一緒に夕食をとることになるなんて思いもしなかった。私のことは良く調べてたわ。他の女性にもそうなのよ。とっても可愛くて、彼との間に嫌なことは何もなかったの。」

 「アーサーのやり方はいつもそうなのよ。アーヴィン・バーリンはよく撮影所に来てたけど、そうするとL.B.は言うの、『やあアーヴィン、会えてうれしいよ!』 って。彼が驚いてるのがわかったわ。アーサーはこれから何をするつもりか言わないのよ。彼はただやるだけ。照明からセットや音楽、役者に至るまでよく理解していたわ。おまけに彼は何をすべきかわかっている人たちの集団を作り上げたの。ミュージカルを作りたいとその人たちが思えば、そこには何でも備わっていたの。完全に自給自足よ。たった一本のミュージカルを撮るためだけにこれだけの人たちをつなぎとめておくのは無理よね。」

「ハリウッドのライオン」 ルイ・B・メイヤーの生涯と伝説 その22007年04月12日 20時53分30秒


 レスリー・キャロンの思い出。
「アーサーの語彙は四つしかないの。『素晴らしい、ひどい、いいよ、だぁーーーーーめ』 こんなものね。文章を組み立てられないのよ。でもとっても恥ずかしがりやで、やさしくて、思いやりのある人だったわ」

ヴォーカルアレンジャーのリーラ・シモーンは言う。
「フリードのすごいところは、何が良くて何が悪いかわかっていたところね。以上、おしまい。
その理由を彼自身説明できないの。でも芸術的とかいろんな点から見て、何が良くて何が悪いか、何が足りないか、確かな勘を持っていたわね。」

シド・シャリースはそのことを端的に表現している。
「彼は芸術家なのよ」

フリード組はサルバーグビルの二階の角の続き部屋を拠点にしていた。長年にわたりブラックジョークのネタにされてきた死体安置所を見下ろすことのできる場所である。スタジオ内での彼のランクはシャワー付の専用浴室が備えられていたことでわかる。このような快適な設備は最もかわいがられたスタッフにしか与えられなかった。
 フリードのオフィスの特徴は、彼が育てた多くの種類の蘭と、愛好する絵画にあった。ルオー、デュフィ、ユトリロ、レジェ----その周りには吸殻のあふれかえった灰皿がそこかしこにあった。

 フリード組の雰囲気は明るく和やかで、誰も気さくであった。「若草の頃」の初稿を書くためニューヨークからやってきたサリー・ベンソンはフリード宛のメモを残している。
 「買い物に行ってきました。支払いはサックス・フィフスアヴェニューやバロックスのあなたの口座につけておきます。それから、お願いだから私のところに来ていつもお金をせびるのはやめてください。どうせ全部飲み代に使うんでしょ。あなたのことはわかってますよ。」

 メイヤーは映画製作に関するフリードの嗅覚を信頼し、見守った。
 フリードがジーン・ケリーという名の新人ダンサーをデヴュー作でジュディ・ガーランドの相手役にすえたところ、スタジオの口さがない連中はフリードは頭がおかしいんじゃないかと言いあった。
「あいつ(ケリー)はいけ好かないアイルランド野郎だ」とエディー・マニックスは不満を口にした。

 ある日の昼食時、フリードはメイヤーにこぼした。
「みんなケリーに対する私の扱いが間違っていると言ってます」
「君はどう思うんだね」
「彼のことはかってますよ」とフリードは答えた
「よし、じゃあ、つまらん奴らの話は聞くな」

 同じように、ヴィンセント・ミネリに監督をさせようとフリードが考えたときも、賛成する者はいなかった。ミネリは明らかに男らしさに欠け、はっきり意見の言えないことは絶望的なほどだった。フリードは彼をB級映画の製作部門に入れようともしたが。そこでも誰も彼に映画を作らせようとしなかった。「彼を監督にする唯一の方法は彼のために脚本を買ってやることしかなかった」とフリードは後に語っている。買い与えたのが「キャビン・イン・ザ・スカイ」だった。

「ハリウッドのライオン」 ルイ・B・メイヤーの生涯と伝説 その32007年04月13日 23時58分12秒


 時にフリードとメイヤーの信頼関係が思いがけない成果を生み出すことがあった。フリードは仕事上の会合でプラザ・ホテルに出かけ、ブロードウェイの伝説的スター、ジョージ・M・コーハンと同席したが、コーハンの開会の挨拶に驚くことに なった。
 「実は・・・・・・ルイ・メイヤーには長い間会っていないが、私の母に対して親切にしてもらっていたんだ・・・・・・いつも母に気を使ってくれて、劇場の席もとってくれたんだ。」
コーハンは最終的に「リトル・ネリー・ケリー」を三万五千ドルという格安の値段でフリードに売ってくれた。

 フリードには「散らかす」どころの騒ぎではなく、「薄汚い」と言ってもよいほどの性癖があった。
「彼の車の後部座席はデリカテッセンの包装紙であふれていたの」とベッツィー・ブレアは言った。「初めて彼の家に行ったときに思ったわ、『この男にフランス印象派の絵画を所有する資格はない』って。」
 ジュディ・ガーランドはフリードがやって来るのを見るとよく言ったものだ。「ほら、タンクが来たわよ」
(註; いろいろなものを満載しているという意味か?)

 しかしフリードのミュージカルには独特の質の高さや、魅力があった。さらに歴史の重みも備わっていたが、これはL.B.がセント・ジョンやハーヴァーヒルにいた若いころに強く惹かれた演劇的正統性を大切にした結果である。「巨星ジーグフェルド」「美人劇場(Ziegfeld Girl)」「ジーグフェルドフォリーズ」といった映画でフローレンツ・ジーグフェルドの遺産を大切にしてきたのは、MGMがこの偉大なショーマンの後継者であると宣言していたことを意味している。

 フリードの制作した「ブロードウェイ」にはミッキー・ルーニーとジュディ・ガーランドが古びた劇場を探険するシーンがある。
 「どの劇場もお化け屋敷さ」とルーニーは言う。「この劇場で上演されたすべてのショーを考えてごらん。失敗もあれば成功もある。つまらないショーもすばらしいショーもある。その全部が今ここで僕たちを取り囲んでるんだ。笑いや喝采、歓声が。」
 ミッキーとジュディはここからリチャード・マンスフィールドやサラ・ベルナール、フェイ・テンプルトンにジョージ・M・コーハンを再現しようと突き進んでいく。フォークナーが述べたように、過去は死んでいない。過ぎ去ってさえいないのだ。

 フリードは管理的業務をロジャー・イーデンスのような人たちにかなりの部分頼っていた。また、コンラッド・サリンジャーらにはMGMミュージカルに特有のオーケストラの響きを作り上げさせた。ある作曲家はその特徴を次のように述べている。「大いなる弦楽器のもやの中を、とてもセクシーな管楽器の響きが漂っていく・・・・・・・歌声を包み込みながら。」

 ジョージ・シドニーは回想する。
 「ある日私はフリードや脚本家と会議を開いていた。脚本家と私が議論していると、途中でアーサーが言ったんだ。『ちょっと用事があるから、このまま続けててくれ。』  十分たっても二十分たっても彼は戻ってこなかった。会議を終えて外に出る途中、喫茶室のそばを通るとフリードが一人でコーヒーを飲んでいるじゃないか!  彼はいわゆる『大物』になる気はなかったんだ。皆を集めてくる才能だけが望みだったんだろうね。」

 その結果が六十年後の今日までミュージカル映画の手本となる一連の作品に実を結んだのである。

 「私たちは皆、フォックスやワーナーブラザースの上を行ってることを意識していたのよ。」とベッツィ・ブレアは語る。「ミュージカルを作る最高のスタジオにいることもわかってたわね。みんな信じられないくらいミーハーだったの。ベティ(コムデン)にアドルフ(グリーン)と私でフォックスのミュージカルをよく見に行ったんだけど、まるで違う惑星で生まれた作品みたいに見えたわ。」
 MGMは古風な様式の映画を作るという定評があったが、ミュージカルに関しては当てはまらなかった。そこでは革新性が支配していた。ジーン・ケリーであろうが「錨を上げて」でネズミのジェリーと踊り、フレッド・アステアも「恋愛準決勝戦」では天井で踊るのである。

 「フリードはメイヤーに偉大な庇護者の影を見ていたし、父親のイメージに重ねていたんだ。」とアドルフ・グリーンは言っている。「L.B.のおかげで成功も権力も手に入れたし、事実そう自覚もしていたよ。常に二人の間の信頼関係に敬意を払い、恐れを抱き、自慢にもしていたんだ。彼はメイヤーに対してこの上ない敬意を払っていたよ。自然にね。へりくだった態度もとっていたが、それはスタジオ全体がそうだったんだ。あそこじゃ、腹の底でどう思ってるかは別として、感謝の態度を見せないといけなかったんだよ。『Attitude of gratitude(感謝の態度)』・・・・・なんだかいい歌ができそうな響きじゃない?」

 フリード組にはニューヨーク演劇界から多くの才能が流れ込んでいたため、ゲイの傾向も強かった。ある日レッド・スケルトンとエスター・ウイリアムスが花壇のわきを通ると、一面に咲いたパンジーがそよ風になびいていた。スケルトンはそれを指差して言った。
「ごらんよ、フリード組だ。」

(註;パンジーは男性同性愛者の蔑称)

「ハリウッドのライオン」 ルイ・B・メイヤーの生涯と伝説 その42007年04月15日 03時28分38秒


 いくら訳してもきりがないので、このへんで止めておきます。

 当時サラリーマンとしては全米一の高給取り(100万ドル?)であったL.B.とフリードの関係は、一代で財をなした社長とその部下と考えれば、けして珍しいものではないでしょう。L.B.もこの本ではケチで無能な嘲笑の対象ではなく、等身大の有能なビジネスマンとして描かれている(らしい?)ので、なかなかよいエピソードも出てきます。
 たしかに最大、最高の撮影所を作り上げた男が、ただ無能なだけのわけがありません。

 最後にホモつながりで(別に無理につなげなくてもいいが)、ヴィンセント・ミネリに関して書かれた部分を訳して、この項は終わりにします。




 アーサー・フリードのヴィンセント・ミネリを見る目に狂いはなかった。映画の撮り方--とりわけMGMでの撮り方--を二年間にわたり学んだ後、ミネリはA級作品の監督になった。しかしこの頃でもスタジオは彼に週給千ドルしか払っておらず、このクラスの監督の給与としては相場以下だった。ミネリの才能に疑問をさしはさむものは誰もいなかったが、ミネリ自身に対しては誰もが疑問だらけだった。

 「ヴィンセント・ミネリがラジオシティ・ミュージックホールで働いていた当時、ロックフェラーセンターにいた私を訪ねてくれたことがあった。」と美術監督のジャック・ハードは思い出を語る。 
 「一緒に彼のアパートに戻ると、ミネリは化粧を始め、口紅とアイシャドウをつけたんだ---変態だ」

 「何年か後に私がMGMに来ると、ミネリはすでに監督として成功していた。彼のところへ行き挨拶をしたが、私のことを無視したんだ。このときもまだ口紅とアイシャドウを塗ってたよ。 もちろん私の行動は慣例を破ったことになるのさ。MGMじゃ下っ端の者は、プロデューサーや監督から話しかけられない限りこっちから話しちゃいけないことになってたんだ。フォックスじゃみんな友達みたいだったけど、MGMは違ったね。」

 「映画の撮影所なんて田舎町みたいなもんさ。誰がどうだってことをみんな知ってるんだよ。ヴィンセントがゲイなのはわかってたんだ。だからジュディ・ガーランドも含めてみんなが、ヴィンセントと結婚したらどうなるかよく理解してなくちゃいけなかったんだよ。どうしてなんだろう? 誰もわからなかったんだ。 
 本当に頭がおかしい人たちのことも全部含めて、メイヤーが日常体制の中で対応せざるをえなかったことをよく考えてみた方がいい。彼のオフィスが緊急対策センターの役目も果たさなくちゃならなかったんだ。こういうことも考慮してみると、メイヤーのやりかたはそれほど悪かったわけじゃないよ。」


(2007年9月17日 一部改訳)