ジーン・ケリー おまけ その1 「時間」 ― 2007年08月22日 00時41分53秒
ミュージカル映画に登場するダンサーについて書かれた ”That's Dancing”(Tony Thomas著 1984)のジーン・ケリーについての章は、次の言葉で始まっている。
「ジーン・ケリーが映画界にはいったのはフレッド・アステアに遅れること十年であるが、映画史の観点から見て、この遅れはケリーにとり大きな不利益となった。ミュージカル映画の歴史のなかでも豊かで活気に満ちたこの十年を逃したことは、彼のためにも残念なことである。
しかしこのことにもまして残念なのは、デヴュー作”For Me and My Gal”出演のためカメラの前に立ったケリーにとって、ミュージカル映画の黄金時代がわずか十数年しか残されていなかったことである・・・・」
1942年の”For Me and My Gal”から1957年の「魅惑の巴里」までの十五年間を映画界でのケリーの活躍期とすれば、この十五年間が彼にとって、あるいはわれわれ観客にとって十分な期間と言えるのかどうかに答えるのは難しい。短いながらも十分燃焼し尽くしたとも思う者もあれば、さらなる進化を見たかったと言う者もいるだろう。
しかしダンサーとしてのケリーに的を絞れば、失われた十年間は大きな痛手であったことに同意せざるを得ない。
ダンスが芸術であることは言うまでもないが、肉体表現である限りスポーツ同様に活躍できる年月に限りはある。おそらく二十代後半から三十代初めが、技術と体力のバランスが最もとれた時期と言ってよいだろう。その後技術や表現力は向上するにしても、それを支える肉体はさまざまな故障も加わり年齢とともに衰える。三十代末から四十代前半、個人差や踊りの手法、質による違いはあっても、ジャンプやターンを多用する西洋的なダンスの分野では誰しもトップとして踊る限界を感じるようになる。
ましてやアスレチックな躍動感と豊かな筋肉の質感を武器に表現行為を行うケリーである。三十歳で映画界に入った彼にとって残された時間はあまりにも少ない。
ジーン・ケリー おまけ その2 「トラブルメーカー」 ― 2007年08月25日 01時16分47秒
MGMでのミュージカル二作目「デュバリィは貴婦人」(1943)より”Do I Love You?”
ナイトクラブの歌手ルシル・ボールに恋するダンサー役で、コール・ポーターのナンバーを流麗に踊ります。
ここにこのナンバーを持ってきたのにはわけがあります。
一つはこの映画自体がそれ以後の作品と第一作”For Me and My Gal”の間でなんとなく目立たないこと。二番目は、その中でこのナンバーがわりに良くできていること。三番目は、良く出来ているとは言いながら、ひどく優れているというほどでもないことです。
もって回った言い方でよくわからないかもしれませんが、この適度に良くできていながら、それほど力も入っていないという中途半端さが、かえってまだ三十歳そこそこのケリーのダンスと肉体を素の部分で見て取りやすいと思うからです。
撮影当時、ケリーの撮影所内での地位はまだ確立されていません。続く"Thousands Cheer"(1943)から、「カバーガール」(1944)、「錨を上げて」(1945)を通して、彼の振付を含む映画製作全般に対する能力が認められて行く、まだその前の段階です。
当時、スタジオ上層部の間でたった彼の評判は、「何ごとにも不満を訴える、ラディカルで左翼的な考えを持ったトラブルメーカー」という芳しからざるものでした。この作品でも、振付予定のシーモア・フェリックスを「考え方が古くかみ合わない」との理由で、友人のロバート・オルトンかチャールズ・ウォルターズに代えるよう要求します。アーサー・フリードは結局、ケリーの映画製作全般への情熱と才能を見通し、ウォルターズとの交代を了承します。
というわけでこの作品には、同じ年に封切られた”Thousands Cheer”のモップと踊るナンバーに象徴されるような、平均的な労働者や兵士の日常がそのままダンスに移行して行くような革新性もなければ、後の傑作群で踊られるような凝った振付もありません。
彼には珍しい燕尾服姿で、ありきたりのルーティンを力まずさらっと踊っているようにも見えるのです。
ジーン・ケリー おまけ その3 「モールド感」 ― 2007年08月27日 23時37分50秒
おなじく”Do I Love You?”
なかなか良い場面がキャプチャーできませんが、ここで見ていただきたいのはケリーの体に充溢する質量感です。
その2で述べたように、以後の作品を通してケリーのスタジオ内での評価が高まり、彼自身の振付に対する関与が大きくなっていきます。結果としてプロダクションナンバーの状況設定や振付はケリーの嗜好を反映し、ストーリーの流れと違和感のない、現代的で斬新なものに変化します。
しかし「デュバリイは貴婦人」の頃のケリーにまだその発言力はありません。ダンスのルーチン自体は彼が考えたとしても、設定はいかにもありきたりで古くさく、カラーでなければ三十年代のミュージカルナンバーとなんら変わるところがありません。しかし、逆にそこが内容や振付の斬新さに目を奪われることなくケリー自身の身体---それも三十歳近くの若々しい身体---を見て取れる大切な機会でもあるのです。
楽屋から通路を通り客席後方に現れるときからすでに、股関節を中心にコントロールされた彼の体は安定と躍動感に満ちています。 通路の椅子を一つ飛び越え、さらに舞台へ飛び上がる姿の楽しげな余裕。ムーディーな曲をバックにスポットライト一つに照らしだされる流れるような腰の移動。胸、腰、腕が膨張感と特有の質量感で観る者に語りかけてきます。
まさに彼の独壇場、ケリーならではの身体の与える悦びとしか言いようがありません。
このときのケリーの身体から受ける印象を、私は「モールド感」と勝手に名づけてみました。
基になった英語は”mould”--- 名詞なら「型、鋳型、流し型」、動詞なら「(型に入れて)・・・・を造る、(ある型に)・・・・をこしらえる。」を意味します。
語義だけ見ると「型にはまって堅苦しい」とか「融通に欠けぎこちない」といった悪いイメージを持たれるかもしれませんが、そういう意図はありません。ここで表現したいのは、体全体が鋳型で作り上げたように一つのユニットに統一されていながら、四肢や胸、腰などそれぞれの部位が機能的に連動し、豊かな表現を行える身体の状態です。
この状態で現わされるのは、身体の「充実・重み」からくる、「信頼・安心・安定」であり、感覚的には「明るさ・楽しさ・魅惑」であり、動きとしては「膨張・連動・躍動」です。小難しく言えば、「身体の動的な愉悦」でしょう。
若い頃のケリーにはこの感覚があふれているのです。
ジーン・ケリー おまけ その4 「ご苦労さん」 ― 2007年08月27日 23時47分38秒
ジーン・ケリー おまけ その5「消失」 ― 2007年08月28日 23時39分48秒
二十世紀フォックス作品「何という行き方!」(1964)より。
左はシャーリー・マクレーン
突然ですが二十一年後です。
結婚する度に夫が早死にし、かわりに遺産だけはますます増えていくという「不幸な」若妻をシャーリー・マクレーンが演じるコメディー。ケリーはその四番目の夫。
田舎町のナイトクラブのしがない芸人ケリーが、ふとしたきっかけから人気を得てハリウッドスターにまで上り詰めますが、最後は不幸な結末が・・・・・。
上のナンバーはまだ人気が出る前、貧しいながらも幸せな結婚生活を送る二人の空想シーン。「私たちの結婚生活はハリウッドのミュージカル映画のようだった」というマクレーンのナレーションから始まるように、設定からしてすでにハリウッド・ミュージカルのパロディになっています。
しかし、寂しいことにケリー自身の肉体が衰え、観客の期待を担いきれません。締まってはいるが筋肉が落ちた腕や太股。その体からは全盛期の「モールド感」が消え失せています。うねるような筋肉の連動はなくなり、ルーチンの動きに合わせバラバラな手足を動かしているにすぎません。観客を魅了した愉悦は消え、あるのはケリーの抜け殻、凡庸なダンサーの肉体です。意図するしないにかかわらず、ケリー自身が自分のパロディを演じるはめになっています。
もちろん、ここで五十歳を過ぎたケリーをこきおろしたところで何になるものでもありません。年齢のために踊れなくなることはダンサーの宿命。踊るための豊かな筋肉という武器を失ったダンサーに罵声を浴びせることはむごいことです。しかし脚本をコムデン=グリーン、振り付けがケリー自身であることを合わせて考えると、ハリウッドにとってもケリー自身にとっても大切な時間が過ぎ去ったことの感慨は観る者にとってひとしおとなるのです。
映画撮影の技術、スタジオシステム、時代背景、さまざまな分野の有能なスタッフ・・・・この偶然が作り上げたわずか二十数年のミュージカル映画黄金期にダンサーとして己の身体の盛期を少しでも重ねることのできる幸運。
ここに考えをめぐらせると、ケリーにとっての失われた十年の問いは、もしかしたら意味をなさない問いだったのかもしれません。
[この項終わり]
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