ヴェラ=エレン その3「バニー」2007年10月01日 00時27分33秒


10歳の彼女、あだ名は「バニー」
人を惹きつける愛らしさは天賦のものです。

 
 ダンスの勉強を始めたヴェラ=エレンはたちまち頭角を現し、十代の初めにはすでにスタジオの講師を務めるまでになります。ダンスだけに限らず、学校の勉強でもすべての科目に優秀な成績をあげ、また応援バンドのリーダーを務めるなど常に皆の注目を集める存在でした。
 またこの頃からスターになるという目標をもっていたようです。

 彼女が多くのことに秀でていた理由の一つは、後に自ら「始めたことはなんでも完璧にこなしたいという欲望の犠牲者」と公言するほどの完全主義です。
 彼女の常に絶やさぬ笑顔や、人に優しく思いやりのある性格は父親から受け継いだようですが、この完璧主義はどうも母親からのようです。

 母親のアルマは「いつかひとかどの事を成し遂げてみたい」という強い意志を持った人でした。
 何ごとにも几帳面でしたが、なかでも食事療法には熱中し、ヴェラ=エレンのダンサーとしての体形を作るために当時提唱されていた食事法を施します。これは塩、パン、パスタ、シリアルにレモンやグレープフルーツなどを避けるという、現在の栄養学の観点から見れば誤ったものだったようですが、こんなことも影響したのか、一時学校で「彼女が小さいのは母親がピンクのバナナを食べさせてわざと大きくならないようにしているからだ」という噂が流れたそうです。

 こんな母親にとって、才能に溢れ人を惹きつけずにおかない娘は、自分の願望を成し遂げるための大切な対象であったと思われます。娘への期待がますます大きくなるとともに、仕事も少なくこれといった目標も持たない夫に対する失望が明らかになっていきます。

 1936年、スタジオの勧めでニューヨークで開かれたダンス教師のための講習会に出席したヴェラ=エレンはその感激が忘れられず、二ヵ月後に父を説得し、母親と二人再びニューヨークへ向かいます。そこで当時有名だったラジオ番組「ボウズ少佐のアマチュア・アワー」に出演し認められると、翌’37年1月に再び同ショーに出演。そこからボウズ少佐の”All Girl Unit”に参加し全米を巡演することになります。

プロの世界が目の前にあります。




 
 ダンス・スタジオ時代、熱心な彼女は近くに住む同年代の子供たちをダンスのレッスンに誘いスタジオに通わせます。そのうちの一人に、近くの町に住むドリス・カペルホフという女の子がいました。

 後のドリス・デイです。

ヴェラ=エレン その4「肉体改造」2007年10月03日 00時38分21秒

17歳

17歳の彼女



 ツアー終了後ニューヨークにもどったヴェラ=エレンは、母親とアパ-トを借り、ダンスの勉強を続けます。才能を信じた母親は、授業料のため秘書として働きながら彼女を支えていきます。
 この時期、彼女は多くの舞台のオーディションを受けますが、合格することはありませんでした。主な理由はその体格にあります。実はそれまでの二年間で、彼女の身長の伸びは1インチにも満たず、16歳でありながら、身長137cm、体重34kgにすぎなかったのです。
 どれほど踊りがうまくても、これでは役を手に入れることはできません。

 あるプロデューサーはオーディション終了後にこう言ったそうです。

「君のダンスもセリフ回しもすばらしい。だが他の女の子の隣に立ってごらん。小人に見えちゃうよ。・・・・・・・・すまんね。」

 ここから彼女の努力が始まります。なんと自分で身長を伸ばそうと決意し、それを実行に移したのです。
 ダンスの経験を生かして編み出した方法は、戸口にぶら下がることから、ハイキックや床の上でのストレッチなど様々ですが、これらの動作を毎日三十分間実行した上に、お祈りも欠かしませんでした。
 果たしてそのかいがあったのか、21歳の時には身長が164cmにまで伸びています。

 ここまで大きくなれた理由が本当に彼女の努力や祈りのせいなのか、或は単に成長期が遅く始まっただけなのかはわかりません。しかし、自分の意思で肉体を変えられるという確信は、母親の行った食事法やダイエットともあいまって、その後の彼女に大きな影響を与えることになるのです。

 
 18歳になり体も成長した彼女は、ダンスにも自信を深めていきます。そこで、当時ブロードウェイの有名なナイトクラブ”Casa Manana”をとりしきるビリー・ローズの「ライン・ガールズ」のオーディションに応募。大胆にもコーラスガールを拒否し、一人で踊るスペシャルティ・ダンサーを希望したばかりか、その座を射止めることになります。
 Casa Mananaの舞踊監督はロバート・オルトン。後に映画界でも彼女の主要な作品の振付を担当することになります。

 ナイトクラブやレストランのショーで経験をつんだヴェラ=エレンは、再びブロードウェイのオーディションに挑戦。その結果、1939年にジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン二世の”Very Warm for May”、1940年にはリチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの”Higher and Higher”にそれぞれ役を得ますが、残念ながらいずれも公演は短期間で終了してしまいます。
 しかしロバート・オルトンの世話で、その年の10月、エセル・マーマン主演”Panama Hattie”にリード・ダンサーとして参加することになります。

 初めてのロングランとなる作品です。

ヴェラ=エレン その5「出会いと別れ」2007年10月06日 22時34分49秒


1942年、ハイタワー兄弟と。
中央がロバート、右ルイス。

 ”Panama Hattie”公演期間中にヴェラ=エレンは結婚します。相手は”Higher and Higher”出演時に知り合ったダンサーのロバート・ハイタワー。新郎23歳、新婦19歳でした。
 ロバートは兄(?)ルイスと「ザ・ハイタワーズ」を結成し、恵まれた体を生かしたアクロバティックなダンスで高い評価を得ていました。しかし母アルマには、この結婚が気に入らなかったようです。主な理由は、才能ある娘にとって物足りない相手だったことや、彼の気の短さや乱暴な面が心配だったことです。

 ヴェラ=エレンは1942年6月、ロジャース=ハートの”by Jupiter”に出演。レイ・ボルジャーのダンスの相手を務め、一緒に出演したハイタワー兄弟ともども批評家から高い評価を受けます。
 続いて1943年11月からは、再びロジャース=ハートの"A Connecticut Yankee”に出演。1927年に上演された作品の再演ですが、キャメロットの侍女という大きな役をえて様々な新聞・雑誌で絶賛され、ハリウッド行きのきっかけともなります。

 彼女の元へは本公演前のフィラデルフィア公演中から、映画会社のスカウトが次から次へとやって来ます。最終的にはサミュエル・ゴールドウィンと契約することになりますが、出した条件は三つ。「それなりのギャラ(週給千ドル)」、「大きな役」、そして、「スクリーンテストは無し」でした。


 この時期、ヴェラ=エレンに対する周囲の評価や印象はどのようなものだったのでしょうか。

 まずは1944年2月の「ルック」誌を見てみましょう。そのシーズンに大活躍した四人の新人女優を選んでいますが、その四人とは・・・・ジョーン・マクラッケン(オクラホマ)、ソノ・オーサト(One Touch of Venus)、ベティ・ギャレット(Jackpot)、そしてヴェラ=エレンです。
 さらにベティ・ハットンと比較し「(ヴェラ=エレンは)ベティのような力みがなく、もっと観客の気を引きつける」とも記されています。

 上記四人のうちの一人ベティ・ギャレットは、後に当時を振り返り次のように語っています。

 「彼女は素敵だったわ。小柄で、元気が良くて朗らかで、ベタベタしてなくて。映画入りしてからみたいにガリガリにやせてもいなかったしね。"A Connecticut Yankee”じゃ本当に素晴らしかったの。それからダンサーとして足が最高にきれいだったわね。」

 知人のジム・シュレーダーはこの頃の彼女を次のように証言しています。

「顔も体も丸くてとても女性らしかったし、みずみずしくてとてもきれいだったな。いつも一生懸命で、話していると目が輝いてたんだ。動作はとても生き生きしていたよ。」
 当時の彼女は、まだ母親のダイエットの重圧に苦しむこともなく、食欲も旺盛でした。標準的な体重を維持しながら脚や肩、背中の筋肉が発達していたため、まるで女性ボディビルダーのような体だったとも言われています。


 さて彼女には芸能界での生き方のロール・モデルにしていた人物がいました。当時人気のあったヴェラ・ゾリーナです。ヴェラ・ゾリーナはクラシック・バレエの出身ながら、ミュージカル、オペレッタ、映画と何でもこなす人でした。彼女にあやかり、しかも自分の名前を目立たせるため、ファーストネームにハイフンをいれて芸名にしたと言われています。
 映画界入りに際しての母親のマスコミ向けの話では、「娘が生まれる前にハイフンのはいった名前が映画館の巨大なライトに照らされている夢を見た」ことになっています。しかし実際は”By Jupiter”のころからこのハイフン入りの名前が使われていたようです。


 彼女の結婚生活はそれなりにうまくいっているようにみえました。しかし、ヴェラ=エレンの家族、特に母のアルマは、ロバートが娘をキャリアアップのための踏み台にしていると考え、彼女の人格がないがしろにされているのではないかと心配したようです。

 徴兵された兄のルイスがノルマンディーで戦死すると、ロバートは仕事の比重を自分の好きな飛行機の操縦に移していきます。その結果、ヴェラ=エレン自身が家族の稼ぎ手にならざるを得ず、結婚は重荷となっていきます。
 さらに、ロバートのやきもちは乱暴な性格ともあいまって大きな問題になってきます。彼女は恐怖感を抱いて母のところに逃げ込み、離婚届を準備しました。

 ジム・シュレーダーは言っています。

「彼らの離婚には驚かなかったよ。役者同士の結婚は二人が上を目指して努力しているうちはうまく行くんだ。でも片方がブレイクすると結婚生活に緊張関係が生まれるんだ。離婚も珍しくなくなるのさ。」

 

1944年、シカゴ公演終了後、彼女は映画界入りします。

ヴェラ=エレン その6「ゴールドウィン」2007年10月10日 00時10分20秒


24歳の彼女。
ウーーーーン・・・・可愛い。




 母と共にロサンゼルスへ移ったヴェラ=エレンは、アパートでの生活を始めます。ハリウッドデビューにあたり十代である方が評判を呼ぶと考えた母親は、彼女の年齢を実際より5歳若く公表します。実のところ、童顔の彼女は十代と言われてもおかしくない外見だったのです。

 しかし映画界でのゴールドウィンの扱いは期待していたものとはいささか違っていました。当時ゴールドウィン支配下のスターの中でダニー・ケイの人気が急上昇していました。ゴールドウィンは彼をエディー・カンターの後継者と考えます。ケイは正規にダンスのトレーニングを受けてはいませんが、その動きのセンスの良さには天賦のものがあり、プロのダンサーをバックに踊るとダンスが引き立って本物らしく見えるという妙な個性が有りました。

 ヴェラ=エレンは彼のダンスの引き立て役として使われたのです。

 彼女のデビュー作、「ダニー・ケイの天国と地獄」(1945)ではケイ、ヴァージニア・メイヨーに次ぐ三番手の扱いです 。しかしゴールドウィンの扱いにもかかわらず、映画が封切られると彼女の人気が高まり、ファンレターが殺到。格が上の二人よりレターの数が多くなります。その結果、次の 「ダニー・ケイの牛乳屋」(1946)では三番手ながら共演者格に格上げされます。
 4月に映画が封切られると、彼女のダンスは様々なメディアで絶賛されます。「エネルギーの固まり」とも、「子猫のように人の気を引き、香水のように女らしい、春風のようにやさしい、はにかみ屋の少女。」とも形容されたのです。また意外なことに、ハリウッドのセクシー女優トップ10の一人にも選ばれています。
 しかし彼女には、単なるスペシャルティ・ダンサーや清純な女の子役に満足せず、台詞の多いドラマチックな役をやりたいという強い希望があったのです。

 ハリウッドになじみ始めたヴェラ=エレンは、新生活を謳歌します。旺盛な食欲を見せ、舞台や私生活の苦労で一時落ち気味だった体重も50kgにまでもどります。
当時、彼女は
「ニューヨークにいるときはハリウッドの怖い噂ばかり聞かされたけれど、来てみればそれはほんの一部であることがわかった・・・・・・映画界はとても素晴らしいところ。」
と語っています。

 茶色の瞳にシルバー・ブロンドの髪の女の子はハリウッドでめきめき頭角を現していったのです。

 しかし、二作続けての大ヒットにもかかわらず、ゴールドウィンは彼女を認めてくれませんでした。次回作は二十世紀フォックスに貸し出され、”Three Little Girls in Blue ”(1946)に出演することになります。作品自体は平均的な出来映えですが、彼女のスペシャルティ・ナンバー”You Make Me Feel So Young”(シーモア・フェリックス振付)は「映画史に残るダンスナンバー」だったようで、現在「忘れられた傑作」と言われているそうです(本にはそう書いてあるがビデオもDVDも出ていないので確認のしようがありません)。
 続く作品もフォックスに貸し出され、” Carnival in Costa Rica ”(1947)に出演。有名なバレエ・ダンサーで振付家、レオニード・マシーンの振付けに彼女も期待しましたが、結局失敗作となります。
 
 ゴールドウィンがヴェラ=エレンを認めようとしない原因の一つに、彼女の離婚問題があります。彼女とロバートが正式に離婚したのは1946年2月です。この時期彼女の離婚がマスコミでも取り沙汰されます。しかしこのことは年齢詐称ともからんで少しやっかいなことになるのです。当時彼女は公称二十歳。ゴールドウィンは「サミュエル・ゴールドウィン・ダンシング・スター」と呼ばれる女優が二十歳の若さで離婚することに、ゴールドウィンの名声にも傷が付くと考えたようです。
 フォックスは彼女のコメディーセンスを評価し、次回作への出演を要望しますが、ゴールドウィンは貸し出そうとしません。1947年にはコムデン=グリーンの脚色でブロードウェイ・ミュージカルの映画化”Billion Dollar Baby”に主演させる構想もあったようですが、実現には至りませんでした。
 さらに、離婚後スタジオは彼女をさまざまな男性スターと付き合わせようとしますが、宗教的理由もあり彼女は拒否。言いつけに従わず離婚問題で騒がせた彼女に対しゴールドウィンは気分を害し、彼女との契約を解除する決心をします。


 ” Carnival in Costa Rica”の失敗の後、解雇されたヴェラ=エレンはフォックスとの契約もうまくいかず、しばらく仕事にあぶれることになります。しかし「何か新しいことを常に勉強したい衝動に突き動かされている」彼女は、この自由な時間を有効に活用します。きちんとした演技がこなせるよう正式な演技の勉強を始めるほか、速記やスペイン語、ドイツ語、フランス語の勉強まで始めています。

 一方、1948年ごろからテレビの台頭が明らかになってきます。家庭にいながらにして楽しめるテレビの人気が高まると、映画やミュージカルの衰退が始まっていきます。
 ヴェラ=エレンはこの傾向を見据え、
「ミュージカルをいつも作っているスタジオで自分のダンスの才能を役立てたいし、演技にも挑戦したい。とにかく、自分を今よりもっと向上させていかなくては継続契約の望みはない」
と考えたのです。

ヴェラ=エレン その7「オールラウンド」2007年10月13日 22時27分46秒


「土曜は貴方に」(1950)より”Mr.and Mrs.Hoofer at Home”
彼女の踊りは色気がないので、お尻を振っているところを。



 ここまで書いて、まだ原著の三分の一。これからMGM時代に突入し、われわれ(私?)の知っているヴェラ=エレンになるわけですが、先はまだ長い。いささか疲れも出てきました。どうせ面倒になって要約度を高めていくと思いますが、このあたりで一休み。
彼女の踊りについて考えてみましょう。

 さてこの本はヴェラ=エレン好きの人が書いたので、当然のことながら、彼女のダンスに対する評価は非常に高い。私から見るとちょっと誉めすぎではないかと思うところもあります。
それでは彼女の踊りのどんなところが優れていると言っているのか。

 まず第一に強調している点は、彼女のダンスのレパートリーの広さ。そして、いずれのレパートリーでも一流の水準に達していることです。

 彼女が踊るダンスは、タップ・ダンス、トウ・ダンス(クラシック・バレエなど爪先で踊るダンス)、パートナー・ダンス(社交ダンスなど相手のいるダンス)、アクロバット・ダンス、プロップ・ダンス(道具を使ったダンス;アステアのステッキ、ビル・ロビンソンの階段など)、ジャズ・ダンスに及びます(それぞれに適当な訳語が有るのかもしれませんが、とりあえず原著のままの用語を使わせていただきます)。
 
これらのレパートリーに関し、他のダンサーとの比較が書かれていますが、ちょっとおもしろいので見てみましょう。

 「ハリウッドの有名なミュージカル女優のなかで、ヴェラ=エレンをダンスで凌駕する者はほとんどいない。アン・ミラーはタップダンスでは彼女と同等だが、バレリーナの優雅さもなく、アスレチックなダンスやパートナー・ダンスは上手くない。
 ジンジャー・ロジャースはパートナー・ダンスは上手いが、ソロダンサーとしての能力には限界がある。
 シド・シャリースはソロで踊るバレエは優雅だし、アステアやケリーと組んでのジャス・ダンスは魅力的で上手いが、タップやアクロバット・ダンスは踊れない。
 エレノア・パウエルは一般に女性として映画史上最高のオールラウンドなダンサーとみなされている。しかしタップやアクロバット・ダンスではヴェラ=エレンと同等かそれ以上としても、バレエの技術や全体的な優雅さでは劣っている。パウエルはたぐいまれなソロダンサーであって、パートナー・ダンスにはそれほど秀でていない。」

アン・ミラーのタップとヴェラ=エレンのそれが同等かなど疑問に思えることも多々ありますが、それぞれのダンサーの特徴を捉えていて、一つの考え方としては面白いと思います。

 さらに、
「あらゆる分野に精通していると言う意味では唯一のダンサー。」
「タップにアクロバティック、プロップ、バレエを組み合わせたダンスは、アステア、エレノア・パウエルを引き継ぎ、更なる高みに導いた。」

とまで言っています。


 二番目に著者が強調しているのは、異なったダンス間の移行が滑らかであること。そして、個々のステップが正確なことです。

「複雑なステップもにこやかにこなしているので、批評家もルーチンがいかに難しいものであるかを見逃しがちである」
「ステップが正確で、ルーチンの正確さと複雑な組み立てを流れるように踊る才能はアステアを凌ぐものがある」。
だそうです。

 そして最後は”Words and Music”で「十番街の殺人」を共に踊ったケリーの言葉。

「彼女は映画界で最高のダンサー(の一人)だ」

です。


 私のような素人には何が複雑なステップかはわかりませんが、彼女のダンスがスッキリしていて無駄な動きがないのは確かです。
 他方で私が強く感じるのは、彼女の踊りがパートナーを邪魔しないということです。これは動きが邪魔をしないというだけでなく、彼女の身体からヴェラ=エレンならではという質感---「におい」---があまり伝わらないため、パートナーの邪魔にならないという意味もあります。つまり彼女の個性が、相手から観客の注目を奪ったり、相手の個性を覆い尽くすといったことがないのです。

 果たしてこれが良いことなのか。

 たしかにプロ同士ならそれが評価されるのかもしれません。しかし、われわれ観客は「正確なステップ」といった体の動きを直接見ているわけではありません。動きの結果としての「におい」を感じ取り、さらに踊り手の優れた「におい」を希求しているのです。
 以前書いたケリーの「モールド感」、あるいはアステアの抜けきった浮遊感、そういった、この人にしか出せない個性が必要なのに、残念ながら彼女には乏しい。プロの仲間内でどれだけ評価されても、結局私にとって物足りないのはこの点です。

 ゴールドウィン時代の踊りを見ていないので、ここからは勝手な推測です。

 MGMより前の彼女が、ふっくらした頬の純情な女の子の雰囲気を醸し出していたとしたら、実はそれが彼女自身の「におい」だったのではないか。MGM以降、大人の女性に脱皮しようと、彼女は文字通り体を「削って」頬のふくらみをそぎ落とし、低く発声するよう心がけます。そこで確かに大人の女性に生まれ変わり、もうしばらく映画の世界で生きながらえることが出来たのかもしれない。しかし、その過程で失ったものも大きかったのではないか。深みを出そうと努力したことが、本当にダンスの深みにつながったのか。そこが私のまだ解けない謎です。

 もちろん映画界にもヴェラ=エレンをさほど評価していない人もいました。監督のジョージ・シドニーもその一人です。
 2002年、亡くなる直前のインタヴューで次のように語っています。

「ダンサーとしての彼女は名手というより、まあトリックスターだ。上手ではあったが最高の踊り手とは言えなかったな。彼女の動きはギクシャクして流麗さがない。爪先立ちで踊ったり、高く足を上げるのは好きだったね。そうは言っても、アクロバット・ダンスでは並ぶ者がなかったがね。」

私もこちらに与するものであります。

ヴェラ=エレン その8「栄光と失墜」2007年10月21日 02時04分51秒

”The Belle of New York”(1952)より"Naughty but Nice"
当時20インチ(50.8cm)と言われたウエスト



 契約先の見つからないヴェラ=エレンは一時ブロードウェイへの復帰を考えます。復帰に伴うリスクを背負うか、このままハリウッドで辛抱するか。悩みながらブロードウェイの出演依頼を断った直後、MGMから”Words and Music”(1948)の企画が舞い込みます。
 
 リチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの人生をモデルにしたこの作品の振付兼ミュージカル監督は旧知のロバート・オルトン。彼はブロードウェイ時代の彼女の踊りを知っているジーン・ケリーを巻き込み、採用を働きかけてくれたのです。出演部分は7分半のプロダクション・ナンバー「十番街の殺人」(と終了後のわずかなセリフ)。出演者の順位(ビリング)も上から14番目にすぎません。しかしケリーの相手役として踊ったこのナンバーで彼女の人生は大きく変わります。

「十番街の殺人」は1936年、ロジャース=ハートの作品”On Your Toes”中で、ジョージ・バランシン振付、レイ・ボルジャー主演で踊られたナンバーです。元来はコミカルな面を持ち合わせたこのダンスを、ケリーはより深刻な内容に改め、初めての「ダンス・ノワール」とも言うべき作品に仕上げます。性と暴力が彩るドラマチックなストーリー、それを表現するための十分な長さと斬新なカメラアングル。このようなナンバーはメジャースタジオ初といわれ、まさにミュージカル映画史上のランドマークと称えられます。

 彼女はケリーや発声・演技指導のマリー・ブライアントの指示でスクリーン上のイメージを一新します。少女趣味の服や純情さ、シャーリー・テンプル似の表情を捨て、よりセクシーで深い表現力を持つ大人の女性を目指すことになります。さらにMGMからはよりスリムに、足を細くとの圧力がかかります。

彼女は語っています。

「ジーンと踊るナンバーで町のお姉ちゃん役をやるまでは、あまり深く考えずに踊っていたの。マリーのおかげで自分のダンスについて考えるようになったし、ジーンの影響で真剣に取り組むようになったわね。七分間のシーンのためだけに六週間リハーサルをして、撮影に三週間かけたけど、それだけのことはあったわ。スタジオからは七年契約の申し出があったし、イギリスからは映画出演の依頼。そしてたくさんプロポーズも来たのよ。中には自己紹介代わりにエンゲージリングを手紙に同封してきた人もいたわ。NY近代美術館はダンスナンバーのフィルムのコピーを収蔵してくれたのよ。でも一番うれしいのは、ファンの皆さんが新しい私を好きになってくれたことよ。」


 一作のみの出演は長期契約に代わり、その後のケリー、アステアとの共演は、彼女自身の「黄金期」となります。しかしMGMの扱いは、最終的にゴルードウィンと変わりませんでした。

 彼女は続いてケリーと「踊る大紐育」(1949)でも共演します。しかし他の出演者(ケリー、シナトラ、ベティ・ギャレット、アン・ミラー)と比べてビリングは低く、彼女の名はブローウェイからの新参者ジュールズ・マンシンと並べて「タイトルの下」に置かれることになります。
 サラリーも同様です。ケリーは週給2000ドルで、撮影終了時の収入は計42,000ドル。ベティ・ギャレットは週給1750ドルで、計6250ドル。しかしヴェラ=エレンは”A Day in New York”などいくつものナンバーで稽古に時間を割いたにもかかわらず計8875ドル、週給はコメディ・リリーフのアリス・ピアースと同じ750ドルに過ぎません。

 マルクス兄弟の「ラブ・ハッピー」(1949)に出演した後、1949年「土曜は貴方に」(1950)の撮影で彼女は初めてアステアと共演。アステアとのダンスは好評を博し、彼も振付のハーミーズ・パンも「一緒に仕事をした中で最高のパートナー」と彼女を絶賛します。

 同時期、メークアップとMGMから強制されたダイエットの成果か、成熟した女性を演じる彼女の人気が爆発。1950年の人気投票では新人のトップ10にランクされたばかりか、ある雑誌では、アメリカ史上12人の尊敬される人物の一人にまで選ばれています。
 しかしMGMは彼女を十分には認めてくれません。ゴールドウィン同様、「演技力から考え主演は無理。二番手またはスペシャルティ・ダンサーで」と考えていたのです。

 この頃MGMには常設のダンス教室が設けられ、シド・シャリース、アン・ミラーからデビー・レイノルズ、ザザ・ガボールにいたるまでが参加します。中でもヴェラ=エレンは一番長い時間をこの教室で過ごしますが、それもこれも彼女のために実現された企画が少なかったからというのも悲しい話です。

 そんな中、1950年6月彼女はイギリスへ渡り「銀の靴」(1951) に出演します。当時イギリス映画に出演することは、「アメリカでの人気が落ちてやっていけないから」と受け取られかねず、MGMは反対しますが、彼女は聞き入れませんでした。名目上の主演はデヴィッド・ニーヴンながら、実質的に彼女が主演と言える初めての作品のため、演技に踊りにと出ずっぱりで奮闘します。しかし天候、食事の貧しさ、練習施設の不備、衣装の貧弱さなどの悪条件も重なり、映画も最終的に「軽量級のミュージカル」と評される出来に終わります。

 この後ヴェラ=エレンは一年以上、映画出演がありません。ようやく1952年、”The Belle of New York” に出演しアステアと再び共演しますが、結果は悲惨なものになります。制作費二百六十万ドルにもかかわらず、興行収入は百九十九万ドルにすぎず、アステアの主演作で初めて制作費を回収できない映画となったのです。

 このことはアステアのみならずヴェラ=エレンにとってもショックな出来事でした。作品の失敗は即、彼女のキャリアの衰退につながっていきます。アステアは二度と彼女をパートナーに選びませんでした。さらに彼女自身、失敗の影響か体重が急激に落ち、年齢のわりに老けが目立つようになります。出演予定の企画も中止されたり、キャストを入れ替えて撮影されていきます。”I Love Melvin”(1952)ではゲストとしてダンスシーンが撮影されながら、最終的に削られてしまいます。MGMは彼女が興行の目玉にならないと考え、宣伝に力を入れません。入れ代わるように、シド・シャリースがスタジオの女性No1ダンサーとして売り出されていくのです。

 その後彼女は二本の素晴らしいミュージカル映画に出演します。しかし、大作映画に主演格で出演するチャンスは二度と訪れませんでした。