ヴェラ=エレン その8「栄光と失墜」2007年10月21日 02時04分51秒

”The Belle of New York”(1952)より"Naughty but Nice"
当時20インチ(50.8cm)と言われたウエスト



 契約先の見つからないヴェラ=エレンは一時ブロードウェイへの復帰を考えます。復帰に伴うリスクを背負うか、このままハリウッドで辛抱するか。悩みながらブロードウェイの出演依頼を断った直後、MGMから”Words and Music”(1948)の企画が舞い込みます。
 
 リチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの人生をモデルにしたこの作品の振付兼ミュージカル監督は旧知のロバート・オルトン。彼はブロードウェイ時代の彼女の踊りを知っているジーン・ケリーを巻き込み、採用を働きかけてくれたのです。出演部分は7分半のプロダクション・ナンバー「十番街の殺人」(と終了後のわずかなセリフ)。出演者の順位(ビリング)も上から14番目にすぎません。しかしケリーの相手役として踊ったこのナンバーで彼女の人生は大きく変わります。

「十番街の殺人」は1936年、ロジャース=ハートの作品”On Your Toes”中で、ジョージ・バランシン振付、レイ・ボルジャー主演で踊られたナンバーです。元来はコミカルな面を持ち合わせたこのダンスを、ケリーはより深刻な内容に改め、初めての「ダンス・ノワール」とも言うべき作品に仕上げます。性と暴力が彩るドラマチックなストーリー、それを表現するための十分な長さと斬新なカメラアングル。このようなナンバーはメジャースタジオ初といわれ、まさにミュージカル映画史上のランドマークと称えられます。

 彼女はケリーや発声・演技指導のマリー・ブライアントの指示でスクリーン上のイメージを一新します。少女趣味の服や純情さ、シャーリー・テンプル似の表情を捨て、よりセクシーで深い表現力を持つ大人の女性を目指すことになります。さらにMGMからはよりスリムに、足を細くとの圧力がかかります。

彼女は語っています。

「ジーンと踊るナンバーで町のお姉ちゃん役をやるまでは、あまり深く考えずに踊っていたの。マリーのおかげで自分のダンスについて考えるようになったし、ジーンの影響で真剣に取り組むようになったわね。七分間のシーンのためだけに六週間リハーサルをして、撮影に三週間かけたけど、それだけのことはあったわ。スタジオからは七年契約の申し出があったし、イギリスからは映画出演の依頼。そしてたくさんプロポーズも来たのよ。中には自己紹介代わりにエンゲージリングを手紙に同封してきた人もいたわ。NY近代美術館はダンスナンバーのフィルムのコピーを収蔵してくれたのよ。でも一番うれしいのは、ファンの皆さんが新しい私を好きになってくれたことよ。」


 一作のみの出演は長期契約に代わり、その後のケリー、アステアとの共演は、彼女自身の「黄金期」となります。しかしMGMの扱いは、最終的にゴルードウィンと変わりませんでした。

 彼女は続いてケリーと「踊る大紐育」(1949)でも共演します。しかし他の出演者(ケリー、シナトラ、ベティ・ギャレット、アン・ミラー)と比べてビリングは低く、彼女の名はブローウェイからの新参者ジュールズ・マンシンと並べて「タイトルの下」に置かれることになります。
 サラリーも同様です。ケリーは週給2000ドルで、撮影終了時の収入は計42,000ドル。ベティ・ギャレットは週給1750ドルで、計6250ドル。しかしヴェラ=エレンは”A Day in New York”などいくつものナンバーで稽古に時間を割いたにもかかわらず計8875ドル、週給はコメディ・リリーフのアリス・ピアースと同じ750ドルに過ぎません。

 マルクス兄弟の「ラブ・ハッピー」(1949)に出演した後、1949年「土曜は貴方に」(1950)の撮影で彼女は初めてアステアと共演。アステアとのダンスは好評を博し、彼も振付のハーミーズ・パンも「一緒に仕事をした中で最高のパートナー」と彼女を絶賛します。

 同時期、メークアップとMGMから強制されたダイエットの成果か、成熟した女性を演じる彼女の人気が爆発。1950年の人気投票では新人のトップ10にランクされたばかりか、ある雑誌では、アメリカ史上12人の尊敬される人物の一人にまで選ばれています。
 しかしMGMは彼女を十分には認めてくれません。ゴールドウィン同様、「演技力から考え主演は無理。二番手またはスペシャルティ・ダンサーで」と考えていたのです。

 この頃MGMには常設のダンス教室が設けられ、シド・シャリース、アン・ミラーからデビー・レイノルズ、ザザ・ガボールにいたるまでが参加します。中でもヴェラ=エレンは一番長い時間をこの教室で過ごしますが、それもこれも彼女のために実現された企画が少なかったからというのも悲しい話です。

 そんな中、1950年6月彼女はイギリスへ渡り「銀の靴」(1951) に出演します。当時イギリス映画に出演することは、「アメリカでの人気が落ちてやっていけないから」と受け取られかねず、MGMは反対しますが、彼女は聞き入れませんでした。名目上の主演はデヴィッド・ニーヴンながら、実質的に彼女が主演と言える初めての作品のため、演技に踊りにと出ずっぱりで奮闘します。しかし天候、食事の貧しさ、練習施設の不備、衣装の貧弱さなどの悪条件も重なり、映画も最終的に「軽量級のミュージカル」と評される出来に終わります。

 この後ヴェラ=エレンは一年以上、映画出演がありません。ようやく1952年、”The Belle of New York” に出演しアステアと再び共演しますが、結果は悲惨なものになります。制作費二百六十万ドルにもかかわらず、興行収入は百九十九万ドルにすぎず、アステアの主演作で初めて制作費を回収できない映画となったのです。

 このことはアステアのみならずヴェラ=エレンにとってもショックな出来事でした。作品の失敗は即、彼女のキャリアの衰退につながっていきます。アステアは二度と彼女をパートナーに選びませんでした。さらに彼女自身、失敗の影響か体重が急激に落ち、年齢のわりに老けが目立つようになります。出演予定の企画も中止されたり、キャストを入れ替えて撮影されていきます。”I Love Melvin”(1952)ではゲストとしてダンスシーンが撮影されながら、最終的に削られてしまいます。MGMは彼女が興行の目玉にならないと考え、宣伝に力を入れません。入れ代わるように、シド・シャリースがスタジオの女性No1ダンサーとして売り出されていくのです。

 その後彼女は二本の素晴らしいミュージカル映画に出演します。しかし、大作映画に主演格で出演するチャンスは二度と訪れませんでした。

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