また通知 ― 2008年01月12日 22時59分22秒
通知 ― 2007年11月16日 01時06分23秒
二ヶ月ほどお休みさせていただきます。
ヴェラ=エレン その11「エピローグ」 ― 2007年11月16日 00時44分26秒
おそらくゴールドウィン時代と思われるポートレイト
やっぱりこうでなくちゃ・・・・・・・・・
ヴェラ=エレンの人生は自身の肉体との戦いだったのだろうか。スターという夢を実現させるためダンスという手段を使わねばならなっかた彼女にとり、「ダンサーとしての体づくり」、「身長を伸ばす努力」、さらに「成熟した女性への変身」・・・・・と戦場を変えて戦いは続いた。そこには母親の願望、映画スタジオの圧力は当然あっただろう。しかし彼女自身の強い意志と完全を求める性癖が外からの願望や圧力と混成したとき、戦いは暴走し始める。
ヴェラ=エレンが神経性食思不振症(いわゆる拒食症)であったのではないかということは以前からささやかれていた。もちろん医師の診断を受けたわけではないので真相は藪の中である。
しかし病気であったか否かに関わらず、彼女にとってやせることはスターとして生き残ることであり、さらには「生きる」ことと同義であった。スターを目指しハリウッドまで来ながらゴールドウィンを首になったとき、MGMは単にミュージカル映画を撮るための最高の場所だけを意味しない。映画スターになりたいという自身と母親の願望を実現させるための一縷の望みでもあったのだ。
「腿をもっと細くしろ」「ウエストは18インチから20インチ」と要求するスタジオに彼女は過剰に適応した。いくら運動しても痩せるのには限界がある。結果としてダイエットにのめりこむ。食事もステーキと野菜か果物のみ(当時はこれがダイエットによいと考えられていた)。一日中コーヒーを飲み続ける。頬がふっくらしているのがよくないと、指で頬を押し続ける。
努力の末”the Belle of New York”でアステアと横並びの共演者という地位を手に入れたにもかかわらず、結果は惨敗。その後は逆に、苦労して作り上げた肉体がスターとしての地位の維持を裏切っていく。
最後の十五年間を語る言葉は私にはない。
しかしゴールドウィンにもMGMにもスターとして企画をなかなか実現してもらえなかったのは、本当にスタジオの無理解のせいだけだったのだろうか(この本の描き方はそうである)。いやしくもプロの制作者たるものがそろって同じ過ちを犯すのだろうか。私にはヴェラ=エレンの側にも制作を躊躇させる何らかの魅力の欠如があったと思えてならない。
彼女と接した人たちは異口同音に「優しく、思いやりのある」その態度を絶賛している。反面、普段の生活でつきあうのは、MGM以外のスターや映画関係者と親類縁者のみ。MGMの共演者とも一線を画し、撮影中も孤立していることが多かった。彼女自身は「ベストをつくしていればプロデューサーは使ってくれる」という考えだったようだが、日ごろの付き合いがなければよい仕事をもらえないのはどこの世界も同じこと。その面での大事な「仕事」が出来なかったことも彼女の欠点の一つであろう。
彼女の遺骨はカリフォルニア州サンフェルナンドの霊園に葬られている。墓石にはただ「VERA-ELLEN 1921-1981」とのみ標され、名前の左に彼女の踊る姿がシルエットで描かれている。一つおいて隣が母アルマの墓。二つの墓の間には墓石もなくただ草が生えているだけだが、そこに娘の亡骸が葬られていると云うことである。
最後に彼女の古くからのファン、ボブ・ジョンストンが作者に当てた手紙の最後の部分を訳して終わりにしたい。
1998年8月の暑い日、霊園を訪れた彼は苦労の末ようやく彼女の墓を見つけ出し、次のような感慨を書き記している。
「・・・・・・・・・・・あなたなら他の誰よりもこの気持ちを理解してくれると思うのです。墓の前で私がどれだけ絶望感に打ちひしがれたか、そして、人生で最愛の人々より長生きしてしまったことで彼女がどれだけ悲しかったかを。
これほど見つけるのに苦労する場所に彼女が打ち捨てられていることにわたしは戸惑っています。彼女の墓を見つけ、そこで祈りの言葉をささげることが出来たこと、そして彼女が求めていた本当の幸せをあの世で見つけることが出来たであろうと思えたことは確かにうれしいことです。
でももう一人の私は、今日経験したことをどう理解してよいのかわからないのです。今考えられるのはこのことだけです----『土を土に、灰を灰に、ちりをちりに帰すべし』。
彼女の出演映画とこの本の存在がどんなにありがたいことか。もしこれらがなかったなら、時とともに彼女の記憶は永遠に消え去ってしまうでしょうから。」
註:
この項は”Vera-Ellen: The Magic and the Mystery”(David Sorenら 著 Luminary Press 2003年)を基に書いたものです。
その1、7、11では、引用以外は私の考えを述べ、2-6および8-10は、主に本の内容を要約、編集したものです。
一部、事実の認定に疑問のある部分もありますが(アステア映画の初の赤字がBelle of New Yorkかなど)、本の内容のままとしました
やっぱりこうでなくちゃ・・・・・・・・・
ヴェラ=エレンの人生は自身の肉体との戦いだったのだろうか。スターという夢を実現させるためダンスという手段を使わねばならなっかた彼女にとり、「ダンサーとしての体づくり」、「身長を伸ばす努力」、さらに「成熟した女性への変身」・・・・・と戦場を変えて戦いは続いた。そこには母親の願望、映画スタジオの圧力は当然あっただろう。しかし彼女自身の強い意志と完全を求める性癖が外からの願望や圧力と混成したとき、戦いは暴走し始める。
ヴェラ=エレンが神経性食思不振症(いわゆる拒食症)であったのではないかということは以前からささやかれていた。もちろん医師の診断を受けたわけではないので真相は藪の中である。
しかし病気であったか否かに関わらず、彼女にとってやせることはスターとして生き残ることであり、さらには「生きる」ことと同義であった。スターを目指しハリウッドまで来ながらゴールドウィンを首になったとき、MGMは単にミュージカル映画を撮るための最高の場所だけを意味しない。映画スターになりたいという自身と母親の願望を実現させるための一縷の望みでもあったのだ。
「腿をもっと細くしろ」「ウエストは18インチから20インチ」と要求するスタジオに彼女は過剰に適応した。いくら運動しても痩せるのには限界がある。結果としてダイエットにのめりこむ。食事もステーキと野菜か果物のみ(当時はこれがダイエットによいと考えられていた)。一日中コーヒーを飲み続ける。頬がふっくらしているのがよくないと、指で頬を押し続ける。
努力の末”the Belle of New York”でアステアと横並びの共演者という地位を手に入れたにもかかわらず、結果は惨敗。その後は逆に、苦労して作り上げた肉体がスターとしての地位の維持を裏切っていく。
最後の十五年間を語る言葉は私にはない。
しかしゴールドウィンにもMGMにもスターとして企画をなかなか実現してもらえなかったのは、本当にスタジオの無理解のせいだけだったのだろうか(この本の描き方はそうである)。いやしくもプロの制作者たるものがそろって同じ過ちを犯すのだろうか。私にはヴェラ=エレンの側にも制作を躊躇させる何らかの魅力の欠如があったと思えてならない。
彼女と接した人たちは異口同音に「優しく、思いやりのある」その態度を絶賛している。反面、普段の生活でつきあうのは、MGM以外のスターや映画関係者と親類縁者のみ。MGMの共演者とも一線を画し、撮影中も孤立していることが多かった。彼女自身は「ベストをつくしていればプロデューサーは使ってくれる」という考えだったようだが、日ごろの付き合いがなければよい仕事をもらえないのはどこの世界も同じこと。その面での大事な「仕事」が出来なかったことも彼女の欠点の一つであろう。
彼女の遺骨はカリフォルニア州サンフェルナンドの霊園に葬られている。墓石にはただ「VERA-ELLEN 1921-1981」とのみ標され、名前の左に彼女の踊る姿がシルエットで描かれている。一つおいて隣が母アルマの墓。二つの墓の間には墓石もなくただ草が生えているだけだが、そこに娘の亡骸が葬られていると云うことである。
最後に彼女の古くからのファン、ボブ・ジョンストンが作者に当てた手紙の最後の部分を訳して終わりにしたい。
1998年8月の暑い日、霊園を訪れた彼は苦労の末ようやく彼女の墓を見つけ出し、次のような感慨を書き記している。
「・・・・・・・・・・・あなたなら他の誰よりもこの気持ちを理解してくれると思うのです。墓の前で私がどれだけ絶望感に打ちひしがれたか、そして、人生で最愛の人々より長生きしてしまったことで彼女がどれだけ悲しかったかを。
これほど見つけるのに苦労する場所に彼女が打ち捨てられていることにわたしは戸惑っています。彼女の墓を見つけ、そこで祈りの言葉をささげることが出来たこと、そして彼女が求めていた本当の幸せをあの世で見つけることが出来たであろうと思えたことは確かにうれしいことです。
でももう一人の私は、今日経験したことをどう理解してよいのかわからないのです。今考えられるのはこのことだけです----『土を土に、灰を灰に、ちりをちりに帰すべし』。
彼女の出演映画とこの本の存在がどんなにありがたいことか。もしこれらがなかったなら、時とともに彼女の記憶は永遠に消え去ってしまうでしょうから。」
註:
この項は”Vera-Ellen: The Magic and the Mystery”(David Sorenら 著 Luminary Press 2003年)を基に書いたものです。
その1、7、11では、引用以外は私の考えを述べ、2-6および8-10は、主に本の内容を要約、編集したものです。
一部、事実の認定に疑問のある部分もありますが(アステア映画の初の赤字がBelle of New Yorkかなど)、本の内容のままとしました
ヴェラ=エレン その10「不幸」 ― 2007年11月15日 00時23分06秒
1962年、やせた彼女と夫ヴィクター(中央)
1963年3月3日、42歳になったヴェラ=エレンは女の赤ちゃんを出産します。名前はヴィクトリア エレン。結婚9年目にして授かった子供に彼女はたいへんな愛情を注ぎます。
ところが三ヶ月後赤ん坊は急死。原因不明の突然死です。死亡時、夫も彼女も家におらず、母のアルマが一人で面倒をみていました。そのため、「母親が殺した」とか、さらには「そういった噂を夫のヴィクターが流した」などの風評が立ったほどです。
彼女の嘆きは一通りではありませんでした。不安定な精神状態から、一時うつ病にもなったようです。彼女は生涯赤ん坊の死を受容できず、子ども部屋も、衣類やオムツにさえも手をつけず、死んだときのままに保存します。
子どもの死は、もともとギクシャクしていた夫婦関係に決定的な影響を与えることになります。死にこだわり続ける彼女と無関心な夫の関係は冷え込み、ついに離婚に至るのです。
1966年9月、夫から出された離婚訴訟に対し、精神的に疲れ果てていた彼女は闘い続ける気力もありませんでした。住み慣れた家は勝ち取ったものの、他に大した財産もなく、元からの貯えと、月々の慰謝料、不動産からのわずかな収入だけで食べていかねばならなくなります。
二度目の離婚は肉体的にも大きな痛手となります。拒食症も影響し体力が衰え、年の割りに一層老けて見えるようになります。テレビ出演や雑誌の取材依頼を断わり続けたのも、外見に自信がなく、かつての映画のイメージを壊したくないという理由からです。さらに関節炎、高血圧が悪化。プロのダンサーとしての活動が困難になったばかりか、一時、歩行にさえ支障をきたします。
この時期以降、彼女はマスコミを避け、自分自身の生活スタイルを頑固に守り続けます。ダンススタジオでの稽古を毎日の日課に、他の時間は自宅で、いまだに来るファンレターへの返事書きなどに時間を費やします。服はたくさんあっても、決まった五、六着を着続け、付き合うのは少数の友人や親戚、故郷の人々とだけ。MGMに関係した人々との交流はまったくありませんでした。
1974年、「十番街の殺人」がはいるはずだった「ザッツ・エンタテインメント」に彼女の映像はなく、プレミア試写会も欠席します。続く「ザッツ・エンタテインメントII」にも出演映像がなく、彼女は深く傷つくことになります。
1970年代後半、自宅に数回泥棒が入った事から、周囲への猜疑心が強まります。女の一人暮らしと知られ高額な修繕費を要求されることを心配し、雨漏りがしても鍋やポットを置いてしのぎます。
警備員を雇ったり防犯システムをつける余裕もありません。庭やプールの整備にもお金がかかりますが、スターの体面を保つため、家も売ろうとしませんでした。そんななか、1980年2月、陰に陽にヴェラ=エレンを支えながらスターへの道を共に歩んできた母のアルマが介護施設で亡くなります
1981年、アステアに対しAFIより生涯功労賞が送られます。しかし、表彰式に招待された彼女が出席を断ると、その「報復」に記念の映像から彼女とアステアのダンスシーンが削除され、再び彼女の心は傷つきます。 この頃には、一層やせてレオタードとタイツのたるみがわかるほどだったそうですが、それでもダンスのレッスンは欠かしませんでした。
その年の8月、首の付け根の腫瘤をがんの転移と診断された彼女は、手術を避け、尊厳を守って人生を終える道を選びます。8月21日、新聞が外に貯まっていることに気づいた隣人が家にはいると、骨と皮だけのような彼女がベッドルームから出てきます。宗教的理由から医療を拒む彼女に、数日間隣人が食事を運びますが、このときでさえ「甘いものはダイエットに良くない」と言って食べなかったといいます。
その後友人らに説得されついに入院したヴェラ=エレンは、数日間の半昏睡状態の後、1981年8月30日に亡くなります。
享年60でした。
ヴェラ=エレン その9「やせ過ぎ」 ― 2007年11月05日 01時02分09秒
1950年代、テレビ出演時
頬が削げ落ちている
出演作のない彼女は二十世紀フォックスに貸し出され、”Call Me Madam”(1953)に出演します。主演は舞台”Panama Hattie”で共演したエセル・マーマン。ヴェラ=エレンはヨーロッパの小国「リヒテンブルク」の王女を演じますが、王女の話し言葉は故郷のドイツなまりをヒントにしたそうです。
続いての出演作はMGMの”Big Leaguer”(1953)。彼女としては待望のドラマへの出演ですが、予算も少ない小品で評判も芳しくありませんでした。彼女自身もやせて、体に以前の張りがありません。この頃からファン向けの雑誌に「やせ過ぎ」とか「少しおかしいのではないか」と書かれるようになります。1954年の「我が心に君深く」ではゲストとしてケリーとの共演ナンバーが撮影されますが、最終的に映画から削られています。
冷遇が続く中、同年彼女はパラマウントに貸し出され、「ホワイト・クリスマス」に出演します。実は企画の無い彼女のため、アーヴィン・バーリンやロバート・オルトンが陰で口ぞえをしてくれたのです。
主演はビング・クロスビー。相棒役にゴールドウィン時代に共演したダニー・ケイ。ヴェラ=エレンは実際は年下のローズマリー・クルーニーの妹役を演じます。映画の中で襟の高い服を着ているのは、やせて衰えた首を隠すためと言われています。
この頃の彼女の言葉です。
「ミュージカルが年に一作じゃ少なすぎるのよ。その間コンディションを保ち続けるのがどんなに大変か、他人にはわからないわね。絵を見てくれる人のいない画家みたいなものよ。演技だけの人ならその間ゆっくり休む贅沢もできるけど、ダンサーはそうはいかないの。」
さて1950年から53年にかけ、彼女はロック・ハドソンと頻繁にデートし、マスコミを騒がせます。当然ながら当時彼のホモセクシャリティ(正確にはバイセクシャル)は一般には知られていません。しかし彼女はそれを承知し、結婚も期待していなかったようです。
他に俳優のロリー・カルホーンやディーン・ミラーとも付き合いますが、様々な理由から結婚にまで至りませんでした。
そんな中、彼女は有名なロスチャイルド家に連なるヴィクター・ロスチャイルドと、1954年11月に結婚します。ヴィクターはロスチャイルドの一族ながら家が貧しく、欧州から米国に渡った後、石油精製で財を成した人物です。
結婚のニュースがマスコミを賑わせている時期を捉え、MGMは彼女の出演予定作品をいくつか発表しますが、結局企画は流れます。
そして1955年、契約切れに伴いヴェラ=エレンはMGMを去ることになるのです。
結婚の喜びもあってか、この時期の彼女は一時的に体重も増え、健康そうでした。55年5月にはラスヴェガスで豪華なショーに出演しますが、残念ながら6月には打ち切られます。
56年、イギリスで”Let's Be Happy ”(1957)に出演。彼女の望む台詞の多い役でしたが、作品は成功とは言えず、映画出演もこれが最後となります。この頃、再び「やせすぎ」との評が目立つようになりますが、かかりつけの医師に従っての食事療法がかえって体重を落とす結果となります。
50年代後半、彼女はテレビのショー番組にもいくつか出演しています。しかし稽古時間も短く、狭いステージで周囲を気にしながら踊るテレビは、完璧主義の彼女にとって我慢のならないものでした。ついに59年、前の出演者が使った野菜が原因でダンス中に転んだ彼女は、以後TV出演を中止します。
映画、TVに出演しない彼女は、この後大衆の前でダンスや演技を見せることはありませんでした。
ヴェラ=エレン その8「栄光と失墜」 ― 2007年10月21日 02時04分51秒
”The Belle of New York”(1952)より"Naughty but Nice"
当時20インチ(50.8cm)と言われたウエスト
契約先の見つからないヴェラ=エレンは一時ブロードウェイへの復帰を考えます。復帰に伴うリスクを背負うか、このままハリウッドで辛抱するか。悩みながらブロードウェイの出演依頼を断った直後、MGMから”Words and Music”(1948)の企画が舞い込みます。
リチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの人生をモデルにしたこの作品の振付兼ミュージカル監督は旧知のロバート・オルトン。彼はブロードウェイ時代の彼女の踊りを知っているジーン・ケリーを巻き込み、採用を働きかけてくれたのです。出演部分は7分半のプロダクション・ナンバー「十番街の殺人」(と終了後のわずかなセリフ)。出演者の順位(ビリング)も上から14番目にすぎません。しかしケリーの相手役として踊ったこのナンバーで彼女の人生は大きく変わります。
「十番街の殺人」は1936年、ロジャース=ハートの作品”On Your Toes”中で、ジョージ・バランシン振付、レイ・ボルジャー主演で踊られたナンバーです。元来はコミカルな面を持ち合わせたこのダンスを、ケリーはより深刻な内容に改め、初めての「ダンス・ノワール」とも言うべき作品に仕上げます。性と暴力が彩るドラマチックなストーリー、それを表現するための十分な長さと斬新なカメラアングル。このようなナンバーはメジャースタジオ初といわれ、まさにミュージカル映画史上のランドマークと称えられます。
彼女はケリーや発声・演技指導のマリー・ブライアントの指示でスクリーン上のイメージを一新します。少女趣味の服や純情さ、シャーリー・テンプル似の表情を捨て、よりセクシーで深い表現力を持つ大人の女性を目指すことになります。さらにMGMからはよりスリムに、足を細くとの圧力がかかります。
彼女は語っています。
「ジーンと踊るナンバーで町のお姉ちゃん役をやるまでは、あまり深く考えずに踊っていたの。マリーのおかげで自分のダンスについて考えるようになったし、ジーンの影響で真剣に取り組むようになったわね。七分間のシーンのためだけに六週間リハーサルをして、撮影に三週間かけたけど、それだけのことはあったわ。スタジオからは七年契約の申し出があったし、イギリスからは映画出演の依頼。そしてたくさんプロポーズも来たのよ。中には自己紹介代わりにエンゲージリングを手紙に同封してきた人もいたわ。NY近代美術館はダンスナンバーのフィルムのコピーを収蔵してくれたのよ。でも一番うれしいのは、ファンの皆さんが新しい私を好きになってくれたことよ。」
一作のみの出演は長期契約に代わり、その後のケリー、アステアとの共演は、彼女自身の「黄金期」となります。しかしMGMの扱いは、最終的にゴルードウィンと変わりませんでした。
彼女は続いてケリーと「踊る大紐育」(1949)でも共演します。しかし他の出演者(ケリー、シナトラ、ベティ・ギャレット、アン・ミラー)と比べてビリングは低く、彼女の名はブローウェイからの新参者ジュールズ・マンシンと並べて「タイトルの下」に置かれることになります。
サラリーも同様です。ケリーは週給2000ドルで、撮影終了時の収入は計42,000ドル。ベティ・ギャレットは週給1750ドルで、計6250ドル。しかしヴェラ=エレンは”A Day in New York”などいくつものナンバーで稽古に時間を割いたにもかかわらず計8875ドル、週給はコメディ・リリーフのアリス・ピアースと同じ750ドルに過ぎません。
マルクス兄弟の「ラブ・ハッピー」(1949)に出演した後、1949年「土曜は貴方に」(1950)の撮影で彼女は初めてアステアと共演。アステアとのダンスは好評を博し、彼も振付のハーミーズ・パンも「一緒に仕事をした中で最高のパートナー」と彼女を絶賛します。
同時期、メークアップとMGMから強制されたダイエットの成果か、成熟した女性を演じる彼女の人気が爆発。1950年の人気投票では新人のトップ10にランクされたばかりか、ある雑誌では、アメリカ史上12人の尊敬される人物の一人にまで選ばれています。
しかしMGMは彼女を十分には認めてくれません。ゴールドウィン同様、「演技力から考え主演は無理。二番手またはスペシャルティ・ダンサーで」と考えていたのです。
この頃MGMには常設のダンス教室が設けられ、シド・シャリース、アン・ミラーからデビー・レイノルズ、ザザ・ガボールにいたるまでが参加します。中でもヴェラ=エレンは一番長い時間をこの教室で過ごしますが、それもこれも彼女のために実現された企画が少なかったからというのも悲しい話です。
そんな中、1950年6月彼女はイギリスへ渡り「銀の靴」(1951) に出演します。当時イギリス映画に出演することは、「アメリカでの人気が落ちてやっていけないから」と受け取られかねず、MGMは反対しますが、彼女は聞き入れませんでした。名目上の主演はデヴィッド・ニーヴンながら、実質的に彼女が主演と言える初めての作品のため、演技に踊りにと出ずっぱりで奮闘します。しかし天候、食事の貧しさ、練習施設の不備、衣装の貧弱さなどの悪条件も重なり、映画も最終的に「軽量級のミュージカル」と評される出来に終わります。
この後ヴェラ=エレンは一年以上、映画出演がありません。ようやく1952年、”The Belle of New York” に出演しアステアと再び共演しますが、結果は悲惨なものになります。制作費二百六十万ドルにもかかわらず、興行収入は百九十九万ドルにすぎず、アステアの主演作で初めて制作費を回収できない映画となったのです。
このことはアステアのみならずヴェラ=エレンにとってもショックな出来事でした。作品の失敗は即、彼女のキャリアの衰退につながっていきます。アステアは二度と彼女をパートナーに選びませんでした。さらに彼女自身、失敗の影響か体重が急激に落ち、年齢のわりに老けが目立つようになります。出演予定の企画も中止されたり、キャストを入れ替えて撮影されていきます。”I Love Melvin”(1952)ではゲストとしてダンスシーンが撮影されながら、最終的に削られてしまいます。MGMは彼女が興行の目玉にならないと考え、宣伝に力を入れません。入れ代わるように、シド・シャリースがスタジオの女性No1ダンサーとして売り出されていくのです。
その後彼女は二本の素晴らしいミュージカル映画に出演します。しかし、大作映画に主演格で出演するチャンスは二度と訪れませんでした。
当時20インチ(50.8cm)と言われたウエスト
契約先の見つからないヴェラ=エレンは一時ブロードウェイへの復帰を考えます。復帰に伴うリスクを背負うか、このままハリウッドで辛抱するか。悩みながらブロードウェイの出演依頼を断った直後、MGMから”Words and Music”(1948)の企画が舞い込みます。
リチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの人生をモデルにしたこの作品の振付兼ミュージカル監督は旧知のロバート・オルトン。彼はブロードウェイ時代の彼女の踊りを知っているジーン・ケリーを巻き込み、採用を働きかけてくれたのです。出演部分は7分半のプロダクション・ナンバー「十番街の殺人」(と終了後のわずかなセリフ)。出演者の順位(ビリング)も上から14番目にすぎません。しかしケリーの相手役として踊ったこのナンバーで彼女の人生は大きく変わります。
「十番街の殺人」は1936年、ロジャース=ハートの作品”On Your Toes”中で、ジョージ・バランシン振付、レイ・ボルジャー主演で踊られたナンバーです。元来はコミカルな面を持ち合わせたこのダンスを、ケリーはより深刻な内容に改め、初めての「ダンス・ノワール」とも言うべき作品に仕上げます。性と暴力が彩るドラマチックなストーリー、それを表現するための十分な長さと斬新なカメラアングル。このようなナンバーはメジャースタジオ初といわれ、まさにミュージカル映画史上のランドマークと称えられます。
彼女はケリーや発声・演技指導のマリー・ブライアントの指示でスクリーン上のイメージを一新します。少女趣味の服や純情さ、シャーリー・テンプル似の表情を捨て、よりセクシーで深い表現力を持つ大人の女性を目指すことになります。さらにMGMからはよりスリムに、足を細くとの圧力がかかります。
彼女は語っています。
「ジーンと踊るナンバーで町のお姉ちゃん役をやるまでは、あまり深く考えずに踊っていたの。マリーのおかげで自分のダンスについて考えるようになったし、ジーンの影響で真剣に取り組むようになったわね。七分間のシーンのためだけに六週間リハーサルをして、撮影に三週間かけたけど、それだけのことはあったわ。スタジオからは七年契約の申し出があったし、イギリスからは映画出演の依頼。そしてたくさんプロポーズも来たのよ。中には自己紹介代わりにエンゲージリングを手紙に同封してきた人もいたわ。NY近代美術館はダンスナンバーのフィルムのコピーを収蔵してくれたのよ。でも一番うれしいのは、ファンの皆さんが新しい私を好きになってくれたことよ。」
一作のみの出演は長期契約に代わり、その後のケリー、アステアとの共演は、彼女自身の「黄金期」となります。しかしMGMの扱いは、最終的にゴルードウィンと変わりませんでした。
彼女は続いてケリーと「踊る大紐育」(1949)でも共演します。しかし他の出演者(ケリー、シナトラ、ベティ・ギャレット、アン・ミラー)と比べてビリングは低く、彼女の名はブローウェイからの新参者ジュールズ・マンシンと並べて「タイトルの下」に置かれることになります。
サラリーも同様です。ケリーは週給2000ドルで、撮影終了時の収入は計42,000ドル。ベティ・ギャレットは週給1750ドルで、計6250ドル。しかしヴェラ=エレンは”A Day in New York”などいくつものナンバーで稽古に時間を割いたにもかかわらず計8875ドル、週給はコメディ・リリーフのアリス・ピアースと同じ750ドルに過ぎません。
マルクス兄弟の「ラブ・ハッピー」(1949)に出演した後、1949年「土曜は貴方に」(1950)の撮影で彼女は初めてアステアと共演。アステアとのダンスは好評を博し、彼も振付のハーミーズ・パンも「一緒に仕事をした中で最高のパートナー」と彼女を絶賛します。
同時期、メークアップとMGMから強制されたダイエットの成果か、成熟した女性を演じる彼女の人気が爆発。1950年の人気投票では新人のトップ10にランクされたばかりか、ある雑誌では、アメリカ史上12人の尊敬される人物の一人にまで選ばれています。
しかしMGMは彼女を十分には認めてくれません。ゴールドウィン同様、「演技力から考え主演は無理。二番手またはスペシャルティ・ダンサーで」と考えていたのです。
この頃MGMには常設のダンス教室が設けられ、シド・シャリース、アン・ミラーからデビー・レイノルズ、ザザ・ガボールにいたるまでが参加します。中でもヴェラ=エレンは一番長い時間をこの教室で過ごしますが、それもこれも彼女のために実現された企画が少なかったからというのも悲しい話です。
そんな中、1950年6月彼女はイギリスへ渡り「銀の靴」(1951) に出演します。当時イギリス映画に出演することは、「アメリカでの人気が落ちてやっていけないから」と受け取られかねず、MGMは反対しますが、彼女は聞き入れませんでした。名目上の主演はデヴィッド・ニーヴンながら、実質的に彼女が主演と言える初めての作品のため、演技に踊りにと出ずっぱりで奮闘します。しかし天候、食事の貧しさ、練習施設の不備、衣装の貧弱さなどの悪条件も重なり、映画も最終的に「軽量級のミュージカル」と評される出来に終わります。
この後ヴェラ=エレンは一年以上、映画出演がありません。ようやく1952年、”The Belle of New York” に出演しアステアと再び共演しますが、結果は悲惨なものになります。制作費二百六十万ドルにもかかわらず、興行収入は百九十九万ドルにすぎず、アステアの主演作で初めて制作費を回収できない映画となったのです。
このことはアステアのみならずヴェラ=エレンにとってもショックな出来事でした。作品の失敗は即、彼女のキャリアの衰退につながっていきます。アステアは二度と彼女をパートナーに選びませんでした。さらに彼女自身、失敗の影響か体重が急激に落ち、年齢のわりに老けが目立つようになります。出演予定の企画も中止されたり、キャストを入れ替えて撮影されていきます。”I Love Melvin”(1952)ではゲストとしてダンスシーンが撮影されながら、最終的に削られてしまいます。MGMは彼女が興行の目玉にならないと考え、宣伝に力を入れません。入れ代わるように、シド・シャリースがスタジオの女性No1ダンサーとして売り出されていくのです。
その後彼女は二本の素晴らしいミュージカル映画に出演します。しかし、大作映画に主演格で出演するチャンスは二度と訪れませんでした。
ヴェラ=エレン その7「オールラウンド」 ― 2007年10月13日 22時27分46秒
「土曜は貴方に」(1950)より”Mr.and Mrs.Hoofer at Home”
彼女の踊りは色気がないので、お尻を振っているところを。
ここまで書いて、まだ原著の三分の一。これからMGM時代に突入し、われわれ(私?)の知っているヴェラ=エレンになるわけですが、先はまだ長い。いささか疲れも出てきました。どうせ面倒になって要約度を高めていくと思いますが、このあたりで一休み。
彼女の踊りについて考えてみましょう。
さてこの本はヴェラ=エレン好きの人が書いたので、当然のことながら、彼女のダンスに対する評価は非常に高い。私から見るとちょっと誉めすぎではないかと思うところもあります。
それでは彼女の踊りのどんなところが優れていると言っているのか。
まず第一に強調している点は、彼女のダンスのレパートリーの広さ。そして、いずれのレパートリーでも一流の水準に達していることです。
彼女が踊るダンスは、タップ・ダンス、トウ・ダンス(クラシック・バレエなど爪先で踊るダンス)、パートナー・ダンス(社交ダンスなど相手のいるダンス)、アクロバット・ダンス、プロップ・ダンス(道具を使ったダンス;アステアのステッキ、ビル・ロビンソンの階段など)、ジャズ・ダンスに及びます(それぞれに適当な訳語が有るのかもしれませんが、とりあえず原著のままの用語を使わせていただきます)。
これらのレパートリーに関し、他のダンサーとの比較が書かれていますが、ちょっとおもしろいので見てみましょう。
「ハリウッドの有名なミュージカル女優のなかで、ヴェラ=エレンをダンスで凌駕する者はほとんどいない。アン・ミラーはタップダンスでは彼女と同等だが、バレリーナの優雅さもなく、アスレチックなダンスやパートナー・ダンスは上手くない。
ジンジャー・ロジャースはパートナー・ダンスは上手いが、ソロダンサーとしての能力には限界がある。
シド・シャリースはソロで踊るバレエは優雅だし、アステアやケリーと組んでのジャス・ダンスは魅力的で上手いが、タップやアクロバット・ダンスは踊れない。
エレノア・パウエルは一般に女性として映画史上最高のオールラウンドなダンサーとみなされている。しかしタップやアクロバット・ダンスではヴェラ=エレンと同等かそれ以上としても、バレエの技術や全体的な優雅さでは劣っている。パウエルはたぐいまれなソロダンサーであって、パートナー・ダンスにはそれほど秀でていない。」
アン・ミラーのタップとヴェラ=エレンのそれが同等かなど疑問に思えることも多々ありますが、それぞれのダンサーの特徴を捉えていて、一つの考え方としては面白いと思います。
さらに、
「あらゆる分野に精通していると言う意味では唯一のダンサー。」
「タップにアクロバティック、プロップ、バレエを組み合わせたダンスは、アステア、エレノア・パウエルを引き継ぎ、更なる高みに導いた。」
とまで言っています。
二番目に著者が強調しているのは、異なったダンス間の移行が滑らかであること。そして、個々のステップが正確なことです。
「複雑なステップもにこやかにこなしているので、批評家もルーチンがいかに難しいものであるかを見逃しがちである」
「ステップが正確で、ルーチンの正確さと複雑な組み立てを流れるように踊る才能はアステアを凌ぐものがある」。
だそうです。
そして最後は”Words and Music”で「十番街の殺人」を共に踊ったケリーの言葉。
「彼女は映画界で最高のダンサー(の一人)だ」
です。
私のような素人には何が複雑なステップかはわかりませんが、彼女のダンスがスッキリしていて無駄な動きがないのは確かです。
他方で私が強く感じるのは、彼女の踊りがパートナーを邪魔しないということです。これは動きが邪魔をしないというだけでなく、彼女の身体からヴェラ=エレンならではという質感---「におい」---があまり伝わらないため、パートナーの邪魔にならないという意味もあります。つまり彼女の個性が、相手から観客の注目を奪ったり、相手の個性を覆い尽くすといったことがないのです。
果たしてこれが良いことなのか。
たしかにプロ同士ならそれが評価されるのかもしれません。しかし、われわれ観客は「正確なステップ」といった体の動きを直接見ているわけではありません。動きの結果としての「におい」を感じ取り、さらに踊り手の優れた「におい」を希求しているのです。
以前書いたケリーの「モールド感」、あるいはアステアの抜けきった浮遊感、そういった、この人にしか出せない個性が必要なのに、残念ながら彼女には乏しい。プロの仲間内でどれだけ評価されても、結局私にとって物足りないのはこの点です。
ゴールドウィン時代の踊りを見ていないので、ここからは勝手な推測です。
MGMより前の彼女が、ふっくらした頬の純情な女の子の雰囲気を醸し出していたとしたら、実はそれが彼女自身の「におい」だったのではないか。MGM以降、大人の女性に脱皮しようと、彼女は文字通り体を「削って」頬のふくらみをそぎ落とし、低く発声するよう心がけます。そこで確かに大人の女性に生まれ変わり、もうしばらく映画の世界で生きながらえることが出来たのかもしれない。しかし、その過程で失ったものも大きかったのではないか。深みを出そうと努力したことが、本当にダンスの深みにつながったのか。そこが私のまだ解けない謎です。
もちろん映画界にもヴェラ=エレンをさほど評価していない人もいました。監督のジョージ・シドニーもその一人です。
2002年、亡くなる直前のインタヴューで次のように語っています。
「ダンサーとしての彼女は名手というより、まあトリックスターだ。上手ではあったが最高の踊り手とは言えなかったな。彼女の動きはギクシャクして流麗さがない。爪先立ちで踊ったり、高く足を上げるのは好きだったね。そうは言っても、アクロバット・ダンスでは並ぶ者がなかったがね。」
私もこちらに与するものであります。
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