エレノア・パウエル その5 「MGM」 ― 2007年02月16日 01時01分13秒

歴史のついでに、当時のMGMについても考えてみます。
1920年代から35年までのMGMには管理者としてのL・B・メイヤーの下に、天才と謳われたアーヴィン・サルバーグや独立前のデヴィド・O・セルズニックの様な力を持ったプロデューサーが控え、常にすべての作品に目を配りながら、自らも一級の作品を製作し続けるという、理想的な体制が維持されていました。とりわけサルバーグは、撮影所全体の利益バランスを考えながら、あえて野心的な大作を制作していきました。平均的予算の作品で利益を確実に生み出すとともに、その収益を大作につぎ込んで成功させ、芸術的評価と商業的成功を両立させるという奇跡に近いことを成し遂げていたのです。
さらに大恐慌での損失やトーキー移行に際しての財政負担も他社に比べて少ないという事情も幸いし、一時MGM一社で映画界全体の収入の75%を占めるほどの圧倒的な力を誇っていたのです。この財政的優位は第二次大戦参戦の頃まで形の上では維持されます。「天の星より多いスター」と謳われた豪華な俳優陣を擁することができたのはこのような理由だったのです。
しかし1935年にセルズニックが独立。さらに翌36年にはサルバーグが37歳の若さで急死し、スタジオの力関係に大きな変化がおとずれます。メイヤーの権力が圧倒的となり、企画は保守的で財政的な冒険を嫌うようになります。映画製作はそれまでほぼ7人の主要なプロデューサーを中心に進められていましたが、サルバーグの死後順次増えて20人前後までになります。権限も分散され、かつてのようにトップの人間がすべての作品に目を通すことは困難になります。
とはいえ、これを逆の立場から見れば、現場に権力の空白が生まれ、それぞれのプロデューサーが好きなように動きやすくなったとも考えられます。後にMGMミュージカルの黄金期を築いたアーサー・フリードが、それまでの作詞家・ソングライターとしての立場からプロデューサー的立場に移行して行ったのもこの時期です。
彼は、1934年ロジャー・イーデンスを見込んでMGMと契約させたのを皮切りに、脚本、音楽、美術、振付けなど各部門を連携させることで、プロダクションナンバーの製作に経験と知識を蓄えていきますが、プロデューサーとしての本格的稼動は1938年からです。タイトルクレジットに名前は載りませんが、制作を始めた「オズの魔法使い」(1939)で副プロデューサーとしてミュージカル場面の製作現場を実質的に取り仕切り、続く「青春一座」(Babes in Arms 1939)からプロデューサーとして一本立ちします。
フリードは当初ミッキー・ルーニーとジュディー・ガーランドを主演にした、俗に「裏庭ミュージカル」と呼ばれる一連の作品を手がけ、低予算ながら高い収益を上げるとともに、二人をMGMの看板スターに育て上げます。さらに1940年代に入ると、ヴィンセント・ミネリ、ケイ・トンプソン、チャールズ・ウオーターズ、ジーン・ケリー、ロバート・オルトンら各分野の有能な人材を次々に集め、黄金時代へ向け布石を打っていきます。しかしエレノア・パウエルとは、最初の「踊るブロードウェイ」(ロジャー・イーデンスも出演)などで曲作りやプロダクションナンバーの製作に関与しますが、プロデュースをしたのは「Lady Be Good」(1941)一本のみです。
彼女の作品を主にプロデュースしたのは後にフリード、パステルナークとともにMGMミュージカルの黄金期を支えたジャック・カミングスです(エレノアが主役またはそれに準じる役で出演した映画に限定すれば、9本のうち6本を制作)。
彼はメイヤーの甥ながら、雑用係から始めて1934年に長編映画のプロデューサーになった人物ですが、製作者として考えると、フリ-ドと比べ一枚落ちるのは否定できません。エレノアがMGMで映画を撮り始めた時期から考え、フリードが彼女の主なプロデューサーになることは有り得なかったのでしょう。しかし後で述べるように、40年以降エレノアのための企画が次々にジュディ・ガーランドらに取って代わられたことを考えると、「契約があと三年遅く、彼女がフリードユニットの一員だったら、後のキャリアが大きく違っていたのではないか」という私の空想はあながち間違いでもないような気がします。
三年の違いはそれだけ大きかったのです。
カミングスとフリードの相互関係や、彼らがエレノア・パウエルをどう評価し、何を考えていたのかは現時点では資料がないのでわかりません
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