エレノア・パウエル その4 「歴史」 ― 2007年02月12日 19時29分30秒
「ロザリー」(Rosalie 1937)より。
”王女様がなぜ踊らなくてはいけないのか”なんていう野暮はなし。
巨大なステージと膨大な数のエキストラ。スケールで見せるのもこの時代の特徴です。
(背景のセットやエキストラをマリオン・デイヴィス主演で撮影されながらお蔵入りになった1930年版「ロザリー」から借用した合成ではないかとの説が根強くある)
ジンジャー・ロジャースは1911年、FOXのアリス・フェイが1915年、そしてMGMのエレノア・パウエルとジーン・ケリーは1912年の生まれです。三十代、四十代で活躍する女性スターももちろんいますが、当時の平均寿命や社会通念を考えると、男性のケリーを除きこの年代の女性スターが最も活躍するのは1930年代の中盤から1945年の終戦前後までと考えるのが妥当でしょう。事実、アリス・フェイとエレノアは1945年までに引退し、ジンジャー・ロジャースの映画でのキャリアは、40 年代後半以降下り坂になっていきます。
彼女たちが活躍したこの30年代中盤から40年代半ばまでが、ミュージカル映画にとってどんな時代だったのでしょうか。
1927年10月に封切られた初めての(パート)トーキー映画「ジャズシンガー」が、事実上初めてのミュージカル映画です。その後ミュージカル映画は1928年には60本以上、1930年には70本以上と量産されますが1932年になると15本以下に激減してしまいます。要は飽きられたのですが、その理由は長くなるので割愛。しかし、この5年間に古代と中世を駆け抜けたミュージカル映画は、1933年、ルネッサンスを迎えます。バズビー・バークレー振付による「四十二番街」(42nd Street)の公開とフレッド・アステアの登場です。
美人でスタイルの良いコーラスガールを幾何学的なフォーメーションで動かし、クレーンによる頭上からのショットを多用するバークレーの振付は、スクリーン上の踊りに広がりと躍動感をもたらします。
一方でアステアの登場は、優れた個人の技量がどれほど観客をひきつけることが可能かをまざまざと見せつけます。細切れのショットを編集でつないで行くのではなく、ダンサーをフルショットで連続して見せることで踊り自体を堪能できるばかりか、彼とジンジャーとのロマンティックな情感を一層印象付けることになります。
この後ミュージカルは再び隆盛を極めることになります。しかし当時のミュージカルのレベルは、40年代後半以降、MGMの「産業革命?」の結果現れる傑作群には、とても及びません。
その理由は、一つには主役をはれてかつ観客を納得させるほどのダンスの力量を持ったスターがアステア以外見当たらないことがあげられます。また技術および費用の問題からカラー映画の撮影が限定されていたこともミュージカル映画にとってはマイナスでした。(劇映画にカラーが本質的に必要なのかは疑問が残りますが、ミュージカルの場合色彩自体が楽しさと美しさをを与えるばかりか、画面の奥行き感を増す働きもあり、ぜひ必要です)
さらに映画の構成上の問題もあります。40年代後半以降のミュージカルが目指していたのは「物語と歌や踊りをどうすればリアルにつないでいけるか」というテーマの追求でした。そのためには無駄を排したストーリーの流れと、登場人物の感情の高まりで生じた緊張感を切らすことなく歌や踊りに移行させることが必要だったのです。
その観点からみると、30年代から40年代中盤のミュージカルはストーリーに無駄が多く、歌や踊りの挿入も唐突な場合が珍しくありません。時にはゲストの芸を見せるためにかなりの時間を割いていることもあります。(今からみれば、このいい加減さがこの時期のミュージカルの楽しみでもあるのですが・・・・)
エレノア・パウエルが映画界にいたのはそんな時代です。
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