エレノア・パウエル その1「顔」2007年02月01日 23時38分45秒

ブロードウェイリズム

「踊るブロードウェイ」(1935)より、フィナーレの「ブロードウェイ・リズム」。少しぶれていますが、かえって良かったかもしれない。
 タップを踏みながらカメラに近づいた彼女がクローズ・アップでこの表情を見せます。さほど場違いとか不自然というわけではありませんが、常にわずかな違和感が残ります。

 エレノア・パウエルを語るのは難しい。
その難しさの原因は第一に彼女のスター性に関わることですが、問題はそれが単に彼女がスターであるか否かという二者択一的な問いでくくれないところにあります。
 彼女がスターでないかと問われれば、「いや、スターである」としか答えようがない。しかし彼女の(主にダンサーとしての)存在自体が持つスター性と「観客と心を通わせ引き込む能力」としてのスター性の間には微妙な「ずれ」が存在し、それが長年の間に堆積し、観客も、そしておそらく製作側をも左右することになっていきます。
 
 彼女の存在感の大きさは、たとえば40年代後半以降のタップの後継者とも目されるアン・ミラーのような、脇役として踊りを見せればよいという立場におかれることを許さない。かといって、主役としてこの人がいれば自然にストーリーと配役の中心が定まり、映画の構成が安定するというほどの資質に恵まれているわけでもない。このなんともとらえどころのないエレノア・パウエルの矛盾は当初あまり表面には現れませんが、時代の制約や撮影所内の様々な事情の中で拡大し、映画スターとしての短命さへつながっていきます。

 これから書いていくことには、彼女の才能の問題や大衆にアピールする力の限界、ミュージカル映画の歴史や時代的制縛、MGMという会社などさまざまなことが関わってきます。これらがみなエレノア・パウエルという優れたダンサーを中心に廻りながら、結局は彼女の資質に収斂して行くのです。
 どこまで書けるのかわかりませんが、それを一つずつたどっていきたいと思います。

エレノア・パウエル その2 「生い立ち」2007年02月04日 02時58分38秒

1936
 
  「どんなに踊ることが好きかって言うと、ご飯を食べるよりダンスをしていたいくらいよ」

 「ダンスは本当に好き。世界中で私より踊ることの好きな人はいないと思うわ」


エレノア・パウエルは1912年、マサチューセッツ州スプリングフィールドの生まれ。母親の生家はニューイングランドの旧家の末裔ですが、当時すでに豊かとは言えず、さらにエレノア2歳のとき両親が離婚します。このため母親が一家を支えて働き、代わりに母方の祖父母に育てられます。
 幼い頃のエレノアはたいへん内気で、客が来ると隠れてしまうほどだったため、心配した母親は彼女をバレエ教室へ通わせます。エレノア7歳の時でした
(ダンスを始めた年齢は6歳から11歳まで諸説ありますが、原因はインタビューごとに年齢のさばをよんでいたことにあるようです)。
 教室で教えていたのはクラシックバレエとアクロバット・ダンスでしたが、彼女はたちまち踊ることに熱中するようになります。

 「もう夢中で、周りには目もくれず、音楽にまかせて踊ったの。これが私の居場所なんだって感じたのね」

 1925年の夏、親戚を訪ねて一家はアトランティックシティーへ出かけます。この時、一人砂浜で踊っていたエレノアは、プロデューサー、ガス・エドワーズに見い出され、アンバサダー・ホテルの子供ショーに出演するようになります。このときの出演料、週三回で21ドルは母親がコーヒーショップで稼ぐ週給より多かったそうです。

 秋の訪れとともに故郷での学校生活に戻ったエレノアは、翌1926年の夏も再びアトランティックシティーのショーに参加。1927年に学校を終えると、本格的にショービジネスの世界にはいっていきます。夏の間アトランティックシティーのショーに出演すると、秋には母親とともにニューヨークに出て、ナイトクラブやボードビルで生計を立てながらブロ-ドウェイデビューを果たします。しかし公演は短期間で終了。 その後もオーデションを数多く受けますが、タップダンスのできない彼女はなかなか採用されません。
 ここに至ってエレノアはタップダンスのレッスンを受ける決意をします。実はこの頃まで彼女はタップを踊りとしてバレエより一段下に考えていたのです。

 16歳のエレノアは、当時マリリン・ミラーのパートナーとして知られたジャック・ドナヒューから35ドルで10回の講習を受けることになります。ところが始めてみると、バレエとは勝手の違うタップダンスは戸惑うことばかりでした。一度の稽古でやめようと考えたエレノアでしたが、結局ドナヒューに呼び出されレッスンを続けることとなります。
 当初彼女が戸惑ったのは、全身を使い、軽く舞うように踊るバレエと、足だけを使い重心を低くして踊るタップの違いでした。そのため、ドナヒューは彼女の足首を押さえたり、サンドバッグを縛り付けたりと工夫しながら、タップの要領を教え込みます。そうこうするうち、彼女は「突然、代数がわかるのと同じように」タップダンスのコツを理解し、それ以後教室では皆の前でドナヒューとお手本を見せるほどになったと言います。

 エレノアが正式にタップダンスを習ったのは後にも先にもこの10回だけです。たとえバレエの基礎があったにせよ、わずかこれだけのレッスンでタップダンスをものにしてしまう才能にはただ驚くばかりです。

エレノア・パウエル その3 「映画」2007年02月05日 00時32分55秒

スキャンダル

 タップを身につけた1929年以降、彼女のキャリアは順風満帆となります。多くのミュージカルやレヴューに出演するかたわら、タップダンサーとして初めてカーネギーホールでショーを行うなど活躍し、1933年までにはすでにダンサーとして並ぶもののない地位を築いています。

 1934年、映画「乾杯の唄」(George White's Scandals )(1934) のヒットに引き続きFoxで「ジョージ・ホワイツ一九三五年スキャンダルス」(George White's 1935 Scandals)(1935) の制作が開始されます。舞台のGeorge White's Scandalsに出演経験のあったエレノアは、ジョージ・ホワイト自身から映画に出演するよう依頼されます。映画に興味のなかった彼女は度重なる要請にしぶしぶ出演しますが、主演俳優らが酒を飲んで撮影に参加するなど、失望することが多く、映画への嫌悪感はかえって強くなります。

  しかしこの映画を観たMGMのL.B.メイヤーは踊れるスター、エレノア・パウエルに注目。企画中の「踊るブロードウェイ」(1935)に端役での出演を依頼します。舞台に専念したいエレノアは、断る口実に法外な出演料や主役級の待遇を要求しますが、メイヤーが受け入れてしまったため、出演することになりました。結果として、主演は形の上ではジャック・ベニーですが、実質的にロバート・テイラーとエレノアを中心にストーリーが展開し、二人を売り出す映画になっています。  MGMはスターを美しく見せることにについて卓越しており、彼女も髪型を変え、眉を抜き、歯の矯正やそばかすの治療までされたそうです。

  撮影を終えると休む間もなくニューヨークに戻り、1935年9月よりミュージカル”At Home Abroad ”に出演します(ちなみに演出はヴィンセント・ミネリ)が、1936年の1月に、過労や足指の化膿症のため降板。これが理由となったのか、静養の後、母親とともにカリフォルニアに向かい、かねて申し出のあったMGMと7年契約を結びます。主な条件に、「リハーサルやダンスの創作のため、年に12週間は時間を割けること」「タップの音は撮影後に録音すること」があります。

エレノア・パウエル その4 「歴史」2007年02月12日 19時29分30秒

Rosalie

「ロザリー」(Rosalie 1937)より。
”王女様がなぜ踊らなくてはいけないのか”なんていう野暮はなし。
巨大なステージと膨大な数のエキストラ。スケールで見せるのもこの時代の特徴です。
(背景のセットやエキストラをマリオン・デイヴィス主演で撮影されながらお蔵入りになった1930年版「ロザリー」から借用した合成ではないかとの説が根強くある)


 ジンジャー・ロジャースは1911年、FOXのアリス・フェイが1915年、そしてMGMのエレノア・パウエルとジーン・ケリーは1912年の生まれです。三十代、四十代で活躍する女性スターももちろんいますが、当時の平均寿命や社会通念を考えると、男性のケリーを除きこの年代の女性スターが最も活躍するのは1930年代の中盤から1945年の終戦前後までと考えるのが妥当でしょう。事実、アリス・フェイとエレノアは1945年までに引退し、ジンジャー・ロジャースの映画でのキャリアは、40 年代後半以降下り坂になっていきます。
 彼女たちが活躍したこの30年代中盤から40年代半ばまでが、ミュージカル映画にとってどんな時代だったのでしょうか。
 
 1927年10月に封切られた初めての(パート)トーキー映画「ジャズシンガー」が、事実上初めてのミュージカル映画です。その後ミュージカル映画は1928年には60本以上、1930年には70本以上と量産されますが1932年になると15本以下に激減してしまいます。要は飽きられたのですが、その理由は長くなるので割愛。しかし、この5年間に古代と中世を駆け抜けたミュージカル映画は、1933年、ルネッサンスを迎えます。バズビー・バークレー振付による「四十二番街」(42nd Street)の公開とフレッド・アステアの登場です。

  美人でスタイルの良いコーラスガールを幾何学的なフォーメーションで動かし、クレーンによる頭上からのショットを多用するバークレーの振付は、スクリーン上の踊りに広がりと躍動感をもたらします。
 一方でアステアの登場は、優れた個人の技量がどれほど観客をひきつけることが可能かをまざまざと見せつけます。細切れのショットを編集でつないで行くのではなく、ダンサーをフルショットで連続して見せることで踊り自体を堪能できるばかりか、彼とジンジャーとのロマンティックな情感を一層印象付けることになります。

 この後ミュージカルは再び隆盛を極めることになります。しかし当時のミュージカルのレベルは、40年代後半以降、MGMの「産業革命?」の結果現れる傑作群には、とても及びません。
 その理由は、一つには主役をはれてかつ観客を納得させるほどのダンスの力量を持ったスターがアステア以外見当たらないことがあげられます。また技術および費用の問題からカラー映画の撮影が限定されていたこともミュージカル映画にとってはマイナスでした。(劇映画にカラーが本質的に必要なのかは疑問が残りますが、ミュージカルの場合色彩自体が楽しさと美しさをを与えるばかりか、画面の奥行き感を増す働きもあり、ぜひ必要です)
 
 さらに映画の構成上の問題もあります。40年代後半以降のミュージカルが目指していたのは「物語と歌や踊りをどうすればリアルにつないでいけるか」というテーマの追求でした。そのためには無駄を排したストーリーの流れと、登場人物の感情の高まりで生じた緊張感を切らすことなく歌や踊りに移行させることが必要だったのです。
 その観点からみると、30年代から40年代中盤のミュージカルはストーリーに無駄が多く、歌や踊りの挿入も唐突な場合が珍しくありません。時にはゲストの芸を見せるためにかなりの時間を割いていることもあります。(今からみれば、このいい加減さがこの時期のミュージカルの楽しみでもあるのですが・・・・)

 エレノア・パウエルが映画界にいたのはそんな時代です。

エレノア・パウエル その5 「MGM」2007年02月16日 01時01分13秒

1938


 歴史のついでに、当時のMGMについても考えてみます。

 1920年代から35年までのMGMには管理者としてのL・B・メイヤーの下に、天才と謳われたアーヴィン・サルバーグや独立前のデヴィド・O・セルズニックの様な力を持ったプロデューサーが控え、常にすべての作品に目を配りながら、自らも一級の作品を製作し続けるという、理想的な体制が維持されていました。とりわけサルバーグは、撮影所全体の利益バランスを考えながら、あえて野心的な大作を制作していきました。平均的予算の作品で利益を確実に生み出すとともに、その収益を大作につぎ込んで成功させ、芸術的評価と商業的成功を両立させるという奇跡に近いことを成し遂げていたのです。
 さらに大恐慌での損失やトーキー移行に際しての財政負担も他社に比べて少ないという事情も幸いし、一時MGM一社で映画界全体の収入の75%を占めるほどの圧倒的な力を誇っていたのです。この財政的優位は第二次大戦参戦の頃まで形の上では維持されます。「天の星より多いスター」と謳われた豪華な俳優陣を擁することができたのはこのような理由だったのです。

 しかし1935年にセルズニックが独立。さらに翌36年にはサルバーグが37歳の若さで急死し、スタジオの力関係に大きな変化がおとずれます。メイヤーの権力が圧倒的となり、企画は保守的で財政的な冒険を嫌うようになります。映画製作はそれまでほぼ7人の主要なプロデューサーを中心に進められていましたが、サルバーグの死後順次増えて20人前後までになります。権限も分散され、かつてのようにトップの人間がすべての作品に目を通すことは困難になります。

 とはいえ、これを逆の立場から見れば、現場に権力の空白が生まれ、それぞれのプロデューサーが好きなように動きやすくなったとも考えられます。後にMGMミュージカルの黄金期を築いたアーサー・フリードが、それまでの作詞家・ソングライターとしての立場からプロデューサー的立場に移行して行ったのもこの時期です。
 彼は、1934年ロジャー・イーデンスを見込んでMGMと契約させたのを皮切りに、脚本、音楽、美術、振付けなど各部門を連携させることで、プロダクションナンバーの製作に経験と知識を蓄えていきますが、プロデューサーとしての本格的稼動は1938年からです。タイトルクレジットに名前は載りませんが、制作を始めた「オズの魔法使い」(1939)で副プロデューサーとしてミュージカル場面の製作現場を実質的に取り仕切り、続く「青春一座」(Babes in Arms 1939)からプロデューサーとして一本立ちします。
 
 フリードは当初ミッキー・ルーニーとジュディー・ガーランドを主演にした、俗に「裏庭ミュージカル」と呼ばれる一連の作品を手がけ、低予算ながら高い収益を上げるとともに、二人をMGMの看板スターに育て上げます。さらに1940年代に入ると、ヴィンセント・ミネリ、ケイ・トンプソン、チャールズ・ウオーターズ、ジーン・ケリー、ロバート・オルトンら各分野の有能な人材を次々に集め、黄金時代へ向け布石を打っていきます。しかしエレノア・パウエルとは、最初の「踊るブロードウェイ」(ロジャー・イーデンスも出演)などで曲作りやプロダクションナンバーの製作に関与しますが、プロデュースをしたのは「Lady Be Good」(1941)一本のみです。

 彼女の作品を主にプロデュースしたのは後にフリード、パステルナークとともにMGMミュージカルの黄金期を支えたジャック・カミングスです(エレノアが主役またはそれに準じる役で出演した映画に限定すれば、9本のうち6本を制作)。
 彼はメイヤーの甥ながら、雑用係から始めて1934年に長編映画のプロデューサーになった人物ですが、製作者として考えると、フリ-ドと比べ一枚落ちるのは否定できません。エレノアがMGMで映画を撮り始めた時期から考え、フリードが彼女の主なプロデューサーになることは有り得なかったのでしょう。しかし後で述べるように、40年以降エレノアのための企画が次々にジュディ・ガーランドらに取って代わられたことを考えると、「契約があと三年遅く、彼女がフリードユニットの一員だったら、後のキャリアが大きく違っていたのではないか」という私の空想はあながち間違いでもないような気がします。
 
三年の違いはそれだけ大きかったのです。



カミングスとフリードの相互関係や、彼らがエレノア・パウエルをどう評価し、何を考えていたのかは現時点では資料がないのでわかりません

エレノア・パウエル その6 「撮影」2007年02月18日 22時58分53秒

ホノルル

 「踊るホノルル 」(1939)よりフラダンスとタップの融合。
撮影当時はフラダンスの側からの批判もあったようですが、彼女のダイナミズムとエロティシズムが適度に混じり合い、なかなか魅力的です。

とはいえ、長々と余計な話が続いて、今回もエレノアのダンスにたどり着きません。


 1936年MGMの専属となったのちは、年に1-2本の主演映画と各地でのキャンペーン公演が主な活動になります。ここに、専属前の「踊るブロードウェイ」から1940年の「踊るニュウヨーク 」までの作品を挙げてみました(括弧内の最後は封切り年月)。

「踊るブロードウェイ」(Broadway Melody of 1936 '35年9月)、
「踊るアメリカ艦隊」(Born to Dance '36年11月)、
「踊る不夜城 」(Broadway Melody of 1938 '37年8月)、
「ロザリー」(Rosalie '37年12月)、
「踊るホノルル 」(Honolulu '39年2月)、
「踊るニュウヨーク 」(Broadway Melody of 1940 '40年2月)

 このへんが彼女の全盛期と言って良いのでしょう。とりわけ「踊るブロードウェイ」「踊るアメリカ艦隊」「ロザリー」はそれぞれの年度でトップクラスの興行収益を挙げています。

 ではこれらの映画のミュージカルナンバーはどのように作られていたのでしょうか。

 彼女の歌は基本的にMarjorie Laneらによる吹き替えです。ミュージカルナンバーの振付家は当然いますが、エレノアの踊りはすべて彼女自身が振付けています。彼女はダンスのアイデアを得るためあらゆることを利用したようで、夢からでもインスピレーションを得るよう、ノートを常にベッドのそばに置いていたそうです。

 出来あがったナンバーは四度踊らねばなりませんでした。最初は振付された後にリハーサルとして。二度目には録音室で踊ります。オーケストラが正しいテンポで演奏できるよう、消音のためのマットレスを敷いて踊ります。三度目は音楽を流しながら撮影のために踊りますが、出来あがったフィルムはサイレントです。カメラの移動音、監督の叫び声、見物人のつぶやきなどが邪魔になり、タップの音を同時録音することが難しいからです。最後に録音室でヘッドホンを付けて踊り、タップ音をダビングします。最高の音質が出るよう、楓材のマットを敷いたそうです。
 タップ音をあとからダビングすることにはもう一つ利点があります。当時飾りの付いたタップシューズは手に入らなかったので、きれいな靴を履いて撮影が可能になるのです。

 彼女のプロダクションナンバーは他のスターにとっても魅力的だったようです。撮影時にはセット内に特別の観客席が設けられ、ジーン・ハーロウ、グレタ・ガルボ、ジョーン・クロフォードらが見物に来ています。またクラーク・ゲイブルは彼女をたいへん評価し、撮影所内の移動に使う自転車の変わりに、高級車のパッカードを誕生日にプレゼントしています。

 MGMも稽古熱心なエレノアのために金を惜しまず、彼女専用のバンガローを建てています。床材は楓、バレエ練習用のバーや鏡を備え、さらに彼女とパートナーが一緒に練習できるよう、ドレッシングルームとシャワーが二つずつあったそうです。

エレノア・パウエル その7 「溶け合わない」2007年02月22日 00時59分59秒

踊る不夜城

「踊る不夜城 」(Broadway Melody of 1938)から”I'm Feeling Like a Million”(「素敵な気分」)
お相手はジョージ・マーフィー。

 踊り始めた二人は公園の「あずまや」に入り、雨に降られます。当然のことながら「トップ・ハット」の有名なナンバー、アステア=ロジャースが踊る「雨に降られるなんて素敵な日じゃない?」( Isn't It a Lovely Day to Be Caught in the Rain?)を意識した設定です。
 とはいえストーリーから言って、恋人でないマーフィー(恋人はロバート・テイラー)と踊ってロマンチックになるはずもありません。踊りのほうもこれまた見事にロマンティシズムに欠けています。二人の踊りが溶け合わず、ずっと平行線をたどっているばかりか、エレノアの力強さばかりが目について、互いのバランスが取れないのです。おまけに、深さが胸まである水たまりに二人で飛び込むという、スラップスティックのようなおちがついて、「すごい」としかいいようがありません。
 
 一般に男女二人が踊る場合、二人が外見上「ひとかたまり」になった上で、互いの存在感の強弱からその「ひとかたまり」の中に重心が現れます。当然女性の方が目立つのでその点では女性の方に重心は偏りますが、普通、男性側が女性を「見守る」ことによって重心を呼び戻し、バランスが取れるのが一般的です。
 ところがこの場面では、元来エレノアのダンサーとしての技量や存在感が圧倒的に強いうえ、この人のロマンチックな感情交流の表現力の欠如のため、マーフィーとの心の通い合いがないままに、エレノアの力強い身体性ばかりが印象付けられることになります。下手をすると彼女の方がマーフィーを振り回しているようにさえ感じられるのです。

 たとえばアステア=ロジャースの「ブロードウェイのバークレー夫妻」のナンバーと較べてみてください(ジンジャー・ロジャースのダンスは明らかにRKO時代より上手くなっています)。
 ジンジャーの恥じらいを含んだ「安心できるセクシーさ」がやわらかい雰囲気をあたりに醸し出し、アステアの乾いた明瞭さと溶け合ってこの二人にしか作れない世界が現出します。まさにケミストリーのお手本です。

 エレノアの踊りを語りだす最初から、欠点をあげつらってばかりいると感じられるかもしれません。しかし、ダンサーとして完璧に作り上げられた身体から現れる現実の肉体としての力強さと、周囲にバリアーを張り巡らしたような強い存在感---この二つは、彼女の比類のない長所を語っていることでもあるのです。

 もちろん相手役とのケミストリーを生まない「芝居ごころ」のなさは、彼女の欠点ではありますが・・・・。