エレノア・パウエル その3 「映画」2007年02月05日 00時32分55秒

スキャンダル

 タップを身につけた1929年以降、彼女のキャリアは順風満帆となります。多くのミュージカルやレヴューに出演するかたわら、タップダンサーとして初めてカーネギーホールでショーを行うなど活躍し、1933年までにはすでにダンサーとして並ぶもののない地位を築いています。

 1934年、映画「乾杯の唄」(George White's Scandals )(1934) のヒットに引き続きFoxで「ジョージ・ホワイツ一九三五年スキャンダルス」(George White's 1935 Scandals)(1935) の制作が開始されます。舞台のGeorge White's Scandalsに出演経験のあったエレノアは、ジョージ・ホワイト自身から映画に出演するよう依頼されます。映画に興味のなかった彼女は度重なる要請にしぶしぶ出演しますが、主演俳優らが酒を飲んで撮影に参加するなど、失望することが多く、映画への嫌悪感はかえって強くなります。

  しかしこの映画を観たMGMのL.B.メイヤーは踊れるスター、エレノア・パウエルに注目。企画中の「踊るブロードウェイ」(1935)に端役での出演を依頼します。舞台に専念したいエレノアは、断る口実に法外な出演料や主役級の待遇を要求しますが、メイヤーが受け入れてしまったため、出演することになりました。結果として、主演は形の上ではジャック・ベニーですが、実質的にロバート・テイラーとエレノアを中心にストーリーが展開し、二人を売り出す映画になっています。  MGMはスターを美しく見せることにについて卓越しており、彼女も髪型を変え、眉を抜き、歯の矯正やそばかすの治療までされたそうです。

  撮影を終えると休む間もなくニューヨークに戻り、1935年9月よりミュージカル”At Home Abroad ”に出演します(ちなみに演出はヴィンセント・ミネリ)が、1936年の1月に、過労や足指の化膿症のため降板。これが理由となったのか、静養の後、母親とともにカリフォルニアに向かい、かねて申し出のあったMGMと7年契約を結びます。主な条件に、「リハーサルやダンスの創作のため、年に12週間は時間を割けること」「タップの音は撮影後に録音すること」があります。