ヴェラ=エレン その7「オールラウンド」2007年10月13日 22時27分46秒


「土曜は貴方に」(1950)より”Mr.and Mrs.Hoofer at Home”
彼女の踊りは色気がないので、お尻を振っているところを。



 ここまで書いて、まだ原著の三分の一。これからMGM時代に突入し、われわれ(私?)の知っているヴェラ=エレンになるわけですが、先はまだ長い。いささか疲れも出てきました。どうせ面倒になって要約度を高めていくと思いますが、このあたりで一休み。
彼女の踊りについて考えてみましょう。

 さてこの本はヴェラ=エレン好きの人が書いたので、当然のことながら、彼女のダンスに対する評価は非常に高い。私から見るとちょっと誉めすぎではないかと思うところもあります。
それでは彼女の踊りのどんなところが優れていると言っているのか。

 まず第一に強調している点は、彼女のダンスのレパートリーの広さ。そして、いずれのレパートリーでも一流の水準に達していることです。

 彼女が踊るダンスは、タップ・ダンス、トウ・ダンス(クラシック・バレエなど爪先で踊るダンス)、パートナー・ダンス(社交ダンスなど相手のいるダンス)、アクロバット・ダンス、プロップ・ダンス(道具を使ったダンス;アステアのステッキ、ビル・ロビンソンの階段など)、ジャズ・ダンスに及びます(それぞれに適当な訳語が有るのかもしれませんが、とりあえず原著のままの用語を使わせていただきます)。
 
これらのレパートリーに関し、他のダンサーとの比較が書かれていますが、ちょっとおもしろいので見てみましょう。

 「ハリウッドの有名なミュージカル女優のなかで、ヴェラ=エレンをダンスで凌駕する者はほとんどいない。アン・ミラーはタップダンスでは彼女と同等だが、バレリーナの優雅さもなく、アスレチックなダンスやパートナー・ダンスは上手くない。
 ジンジャー・ロジャースはパートナー・ダンスは上手いが、ソロダンサーとしての能力には限界がある。
 シド・シャリースはソロで踊るバレエは優雅だし、アステアやケリーと組んでのジャス・ダンスは魅力的で上手いが、タップやアクロバット・ダンスは踊れない。
 エレノア・パウエルは一般に女性として映画史上最高のオールラウンドなダンサーとみなされている。しかしタップやアクロバット・ダンスではヴェラ=エレンと同等かそれ以上としても、バレエの技術や全体的な優雅さでは劣っている。パウエルはたぐいまれなソロダンサーであって、パートナー・ダンスにはそれほど秀でていない。」

アン・ミラーのタップとヴェラ=エレンのそれが同等かなど疑問に思えることも多々ありますが、それぞれのダンサーの特徴を捉えていて、一つの考え方としては面白いと思います。

 さらに、
「あらゆる分野に精通していると言う意味では唯一のダンサー。」
「タップにアクロバティック、プロップ、バレエを組み合わせたダンスは、アステア、エレノア・パウエルを引き継ぎ、更なる高みに導いた。」

とまで言っています。


 二番目に著者が強調しているのは、異なったダンス間の移行が滑らかであること。そして、個々のステップが正確なことです。

「複雑なステップもにこやかにこなしているので、批評家もルーチンがいかに難しいものであるかを見逃しがちである」
「ステップが正確で、ルーチンの正確さと複雑な組み立てを流れるように踊る才能はアステアを凌ぐものがある」。
だそうです。

 そして最後は”Words and Music”で「十番街の殺人」を共に踊ったケリーの言葉。

「彼女は映画界で最高のダンサー(の一人)だ」

です。


 私のような素人には何が複雑なステップかはわかりませんが、彼女のダンスがスッキリしていて無駄な動きがないのは確かです。
 他方で私が強く感じるのは、彼女の踊りがパートナーを邪魔しないということです。これは動きが邪魔をしないというだけでなく、彼女の身体からヴェラ=エレンならではという質感---「におい」---があまり伝わらないため、パートナーの邪魔にならないという意味もあります。つまり彼女の個性が、相手から観客の注目を奪ったり、相手の個性を覆い尽くすといったことがないのです。

 果たしてこれが良いことなのか。

 たしかにプロ同士ならそれが評価されるのかもしれません。しかし、われわれ観客は「正確なステップ」といった体の動きを直接見ているわけではありません。動きの結果としての「におい」を感じ取り、さらに踊り手の優れた「におい」を希求しているのです。
 以前書いたケリーの「モールド感」、あるいはアステアの抜けきった浮遊感、そういった、この人にしか出せない個性が必要なのに、残念ながら彼女には乏しい。プロの仲間内でどれだけ評価されても、結局私にとって物足りないのはこの点です。

 ゴールドウィン時代の踊りを見ていないので、ここからは勝手な推測です。

 MGMより前の彼女が、ふっくらした頬の純情な女の子の雰囲気を醸し出していたとしたら、実はそれが彼女自身の「におい」だったのではないか。MGM以降、大人の女性に脱皮しようと、彼女は文字通り体を「削って」頬のふくらみをそぎ落とし、低く発声するよう心がけます。そこで確かに大人の女性に生まれ変わり、もうしばらく映画の世界で生きながらえることが出来たのかもしれない。しかし、その過程で失ったものも大きかったのではないか。深みを出そうと努力したことが、本当にダンスの深みにつながったのか。そこが私のまだ解けない謎です。

 もちろん映画界にもヴェラ=エレンをさほど評価していない人もいました。監督のジョージ・シドニーもその一人です。
 2002年、亡くなる直前のインタヴューで次のように語っています。

「ダンサーとしての彼女は名手というより、まあトリックスターだ。上手ではあったが最高の踊り手とは言えなかったな。彼女の動きはギクシャクして流麗さがない。爪先立ちで踊ったり、高く足を上げるのは好きだったね。そうは言っても、アクロバット・ダンスでは並ぶ者がなかったがね。」

私もこちらに与するものであります。

ドナルド・オコナー その5 「ジーン・ケリーの影」22007年06月05日 01時20分48秒

雨

 写真を見てください。「モーゼズ・サポーゼズ」です。ケリーとオコナーの立ち姿が良くわかります。すっと立ったオコナーに対し、ケリーは上体をリラックスさせ、重心線をストンと落とした姿勢です。これだけで何かを語りかけてきます。困ったものです。

シド・シャリース その1 「上達」2006年12月11日 00時59分24秒

シド・シャリース ジーグフェルド・フォリーズ

 「ジーグフェルド・フォリーズ」、開幕シーンのバレエ。なかなか良い形です。といっても、今回はこの写真の説明ではありません。

 シド・シャリースのダンスを初期の頃から見ていくと、二つのことに気づかされます。一つは、彼女の踊りがそのキャリアの中で明らかに進歩を続けたこと。そしてもう一つ、最終的に完成された独自のスタイルが作り上げられたことです。異論があるかもしれませんが、1950年代中盤から終わりまでの数年間、ミュージカル映画のダンスにおいて彼女が天下を取ったと私は思っています。それがミュージカル映画黄金時代の黄昏だったのは残念な話ですが。

  子供の頃から映画に出演している場合を除き、多くのダンサーは映画出演の初めからある完成度に達しています(というより、それだけ実力のある踊り手がスカウトされ映画に出演するわけですが・・・・) 。アステア、ケリーを持ち出すまでもなく、途中で技術やスタイルが明らかに変わったダンサーは稀です。しかしシド・シャリースは変わっていきました。それは純粋な技術の進歩であると共に、肉体の進化やそれによって表現されるエロティシズムの問題でもあります。その上達の過程を考えて行くにあたり、少し煩瑣ですが彼女のキャリアをたどってみましょう。

 シド・シャリースはテキサス州アマリロの生まれ(生年は1921年、23年、24年の諸説あり!!!)。バレエ好きの父親に影響され地元のバレエ教室に通うかたわら、自宅に据え付けられた練習用のバーや鏡の前で多くの時間を過ごしたといいます。
 1935年、一家はカリフォルニアのサンタモニカでひと夏を過ごしますが、このときハリウッドにあるファンション&マルコ舞踊スタジオでバレエのレッスンを受けることになります。このスタジオの教師だったのが、後に最初の夫となるニコ・シャリース。そしてもう一人は、かつてアンナ・バブロワのパートナーをつとめ、初期のバレエ・リュスのスターでもあったアドルフ・ボルムでした。
 一家はいったんアマリロに帰りますが、ボルムに才能を認められたシドは1937年ロサンゼルスに戻り、同スタジオの練習生になります。ここでロサンゼルス公演のため滞在していたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの主宰者バジル大佐に見出され、同バレエ団に入団。本格的なバレリーナとしての道を歩き始めます。
 
 その後約一年間、公演に参加しますが、父が怪我をしたためバレエ団を離れ、故郷に帰ることとなります。父の死後ロサンゼルスに戻ったシドは、ニコ・シャリースやあのニジンスキーの妹、ブラニスラヴァ・ニジンスカのもとでバレエの勉強を続けます。さらにバレエ・リュス・ド・モンテカルロに再び参加し、1939年のロンドン、コベントガーデンでの公演に同道することとなります。しかしニコ・シャリースのプロポーズを受け結婚したことから、彼女のバレエ・ダンサーとしてのキャリアは途切れます。
 
 ロサンゼルスへ戻り夫の経営する舞踊学校の補助教師をつとめながら、家事に明け暮れ、1942年には最初の子供を出産します。ところが知人でバレエ・リュスのダンサー、振付家でもあったダヴィッド・リシンから、彼が振り付けを担当するコロンビアのミュージカル「Something to Shout About」(1943年)の中で彼と踊るよう依頼されたことが映画界への足がかりとなります。映画自体は成功とは言えませんでしたが、当時「ジーグフェルド・フォリーズ」を製作中のダンス部門の責任者ロバート・オルトンに見出され、アーサー・フリードを紹介されます。ここからMGMと七年契約を結ぶとともに、芸名をシド・シャリースに変え、ミュージカルスターとしての活動が本格的に始まるのです。

ギエムから考える その32006年10月20日 01時21分12秒

 と、いろいろ小難しいことを書いているが、いったい何を云いたいのか。
要するに、
「ミュージカルの踊りでいくら技術やテクニック、身体能力が優れているからといって、バレーの踊り手を越えられるのか。越えているのか。そんなことよりミュージカルにはミュージカル独自の踊りの価値があり、それを追及することに意味があるのではないか。大切なのではないか。」
ということである。

ドナルド・オコナーの意見に与しない理由がこれである。具体例はいずれまた。

ギエムから考える その22006年10月20日 01時16分40秒

 クラシックバレーの裾野は広く、高いレベルの身体運動の宝庫である。中でも、世紀を代表するパレリーナの一人と目されるギエムの境地は、極まった身体の極北と言ってよい。そのギエムを一方の原型にすえミュージカル映画の踊りを考えてみることは、ショーダンスの枠を超え、踊り手を対象化して考える上で有用ではないだろうか。

ダンスを評価する場合、表面上まず目につくのはダンサーの身体能力やテクニック、そのダンサー独特の雰囲気といったところだろう。
 ギエムの場合のように「演じた役の感情を直に観客に感じさせる能力」も重要ではあるが、現実の問題として、生半なことでできるものではない。くわえて、この能力は身体能力や技術に支えられながらも、ある時点でそれとは独立して存在するという逆説的な構造をかかえている。

 ここでクラシックバレーとミュージカルの踊りの違いを考えてみたい。それは、一般に考えられるような表面上の技術や体の使い方、題材と内容の違いではなく、しばしば見落とされがちな基本的構造----つまり、体とテクニックが観客に与える基底的な感情とそれに対する観客の暗黙の要求の問題である。

 良く訓練された身体とテクニックの隙のなさはある意味で観客を直感的に緊張させる。その緊張を緊張として観客が受け入れるところから出発しているのがクラシックバレーやモダンダンスなど、いわゆる「芸術」といわれる分野である。
 他方、ミュージカルなど娯楽色の強い分野で観客が求めるものは、まず精神の弛緩や安らぎであり、踊りもそれを満足させる方向で作られることが多い (近年この境界は曖昧になっているが、ミュージカルコメディーの伝統が根強い1950年代までの映画の踊りはこう云ってもさしつかえないのではないか)。
 つまり踊りのジャンルとは、踊り手が観客に与える根源的印象と観客の暗黙の要求との共犯的作業に支えられている。
 
 変な喩えで恐縮だが、陸上の100m走に喩えれば、ひたすら速く走るさまと、そのための鍛え上げた肉体を観客に提示するのがクラシックバレーであり、観客をそれを受け入れる。 他方、ミュージカル映画のダンスの場合、100m走の形態はとるが、見る者も出走者も速く走ることに価値をおいていない。ここで重要視されるのは、走る姿かもしれないし、皆で走れる喜びかもしれない。
 この踊り手と観客との共同作業の中で、踊りの形態も技術やテクニックも内容も独自に形成され発展し、分野が生まれる。
 ミュージカルの踊りの難しさは、本来弛緩と安らぎを求めるジャンルにおいて、訓練を行き届かせれば緊張をはらんでしまう身体能力やテクニックを矛盾なくどう溶け込ませて行けるかというパラドックスに潜んでいると思われる。

ギエムから考える2006年10月17日 01時33分53秒

考えることには枠がある。枠の中では妥当と思われることも、枠を取り去ってみると必ずしもそうとは限らない。

ミュージカル映画のダンスをシルヴィ・ギエムから考えてみるのも悪くはない。何かが見えてくる。

8月9日、世界バレーフェスティバルのBプログラムでシルヴィ・ギエムを見た。演目は「椿姫」第三幕のパ・ド・ドゥ。相手はニコラ・ル・リッシュ。同じ椿姫の第二幕のパ・ド・ドゥをパリ・オペラ座のオレリー・デュボンがマニュエル・ルグリと三つ前に踊っている。

 パリの社交界で椿姫と呼ばれた高級娼婦のマルグリットは若いアルマンと出会い恋に落ちるが、別れなければならない。第二幕のパ・ド・ドゥは恋に落ちた二人が過ごす至福の時を描き、第三幕は死を予感したマルグリットがアルマンを訪ねる場面。自ら身を引いたマルグリットを誤解し、彼女の友人の気を引いて復讐しようとするアルマンに対し、自分を苦しめる振る舞いはやめてほしいと懇願する場面である。

 喪服のような黒い衣装に身をつつみ、ベールを被って登場するとき、ギエムはすでにギエムであってギエムではない。悲しみとともにいまだ暗く燃え続ける恋の情念を内に秘めた身体がそこにある。会ってはいけない相手との交わさずにはいられない愛情が、葛藤の形を借りバレーの身体として表現されるが、そればかりではない。ギエムの思いが生の情念として直に私に感じられ、激しく気持ちを揺さぶってきたのだ。
 同時に不思議な感覚につつまれた。踊り手として行う様々なバレーの動きがすべて邪魔なものに感じられたのである。
 「そんな余計なことをせず、このままマルグリットの情念だけを伝え続けてくれればいい」。
自然に涙があふれた。終わった後もこの踊りのことばかり考え続けたせいか、その後の一時間に出演した踊り手たちの印象はほとんどない。

 誤解を承知で言えば、ギエム以外のダンサーはうまい踊りを踊っているにすぎない。あのときのギエムにはすでに踊りもテクニックも必要ではなかった。ただ佇んでいればよい。それほどの境地に達していた。

 だが、それが可能であったのは、同時に、彼女の身体とテクニックがある高みにまで極まっていたからであることも忘れてはならない。