ギエムから考える2006年10月17日 01時33分53秒

考えることには枠がある。枠の中では妥当と思われることも、枠を取り去ってみると必ずしもそうとは限らない。

ミュージカル映画のダンスをシルヴィ・ギエムから考えてみるのも悪くはない。何かが見えてくる。

8月9日、世界バレーフェスティバルのBプログラムでシルヴィ・ギエムを見た。演目は「椿姫」第三幕のパ・ド・ドゥ。相手はニコラ・ル・リッシュ。同じ椿姫の第二幕のパ・ド・ドゥをパリ・オペラ座のオレリー・デュボンがマニュエル・ルグリと三つ前に踊っている。

 パリの社交界で椿姫と呼ばれた高級娼婦のマルグリットは若いアルマンと出会い恋に落ちるが、別れなければならない。第二幕のパ・ド・ドゥは恋に落ちた二人が過ごす至福の時を描き、第三幕は死を予感したマルグリットがアルマンを訪ねる場面。自ら身を引いたマルグリットを誤解し、彼女の友人の気を引いて復讐しようとするアルマンに対し、自分を苦しめる振る舞いはやめてほしいと懇願する場面である。

 喪服のような黒い衣装に身をつつみ、ベールを被って登場するとき、ギエムはすでにギエムであってギエムではない。悲しみとともにいまだ暗く燃え続ける恋の情念を内に秘めた身体がそこにある。会ってはいけない相手との交わさずにはいられない愛情が、葛藤の形を借りバレーの身体として表現されるが、そればかりではない。ギエムの思いが生の情念として直に私に感じられ、激しく気持ちを揺さぶってきたのだ。
 同時に不思議な感覚につつまれた。踊り手として行う様々なバレーの動きがすべて邪魔なものに感じられたのである。
 「そんな余計なことをせず、このままマルグリットの情念だけを伝え続けてくれればいい」。
自然に涙があふれた。終わった後もこの踊りのことばかり考え続けたせいか、その後の一時間に出演した踊り手たちの印象はほとんどない。

 誤解を承知で言えば、ギエム以外のダンサーはうまい踊りを踊っているにすぎない。あのときのギエムにはすでに踊りもテクニックも必要ではなかった。ただ佇んでいればよい。それほどの境地に達していた。

 だが、それが可能であったのは、同時に、彼女の身体とテクニックがある高みにまで極まっていたからであることも忘れてはならない。

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