ジーン・ケリー その1 「 たたずまい」2006年11月05日 19時29分36秒

a Day in New York

”GENE KELLY --- ANATOMY OF A DANCER” はよくできたDVDで、最後まで観ていると人生についてもいろいろ考えさせられますが、ここではケリーの踊りについて考えていきたいと思います。この中で振付家や映画、ダンスの研究者、一緒に仕事をした脚本家、指揮者、共演者(シド・シャリース、デビー・レイノルズなど)等、さらに最初の妻や娘がそれぞれ話していますが、簡単にまとめると 

1.ケリーのひととなり
 傲慢で自己中心的、負けず嫌い、仕事中毒で完璧主義、初心者に踊りを教えることがうまい
2.振付家・監督としての位置づけ
 それまでの映画ミュージカルの殻を破り、踊りや撮り方を現代的に変えた
 ヨーロッパの影響をはなれアメリカ独自の舞踊を生み出す当時の流れの一翼を担っている
3.同僚との関係
 とくにスタンリー・ドーネンとの(お互いの)葛藤は興味深い
そして
4.ダンスのスタイル
これは主にアステアと対比されて語られていますが、並べてみると、

庶民的なスタイル--兵士や労働者の動きをそのまま踊りに表現した
重心が低くて地面に接するように踊る・低く踊るのが好き
タップはアグレッシブで明快
スポーツ的
肉体を意識させる
男性的で力強い
少年のような純粋さと現実的な大人の冷たさを同時に表現している

といったところです。
 ここで問題にしたいのはもちろん彼のダンスのスタイルについてです。無論こういった言葉に異を唱えるつもりはさらさらありませんし、むしろ参考になることばかりです。でも何かもう一つ足りない。これらの言葉を字面で観ると、何かケリーは硬くて力ばかりで踊っている人のように感じられますがもちろんそうではない。逆に私などは「この人なりのやわらかさ」さえ感じています。他方、共演したシド・シャリースは痣だらけになったと言い、フェヤード・ニコラスは力の入ったスタイルだと言っている。さてこの一見矛盾したことがらはどこから来るのか。
 

 ちょっと話は変わりますが、「踊る大紐育」のプロダクションナンバー”a Day in New York”では、ケリーをはじめ三人の水兵が登場し、しばらく踊った後、キャロル・ヘイニーともう一人の女性ダンサーが出てきます。二人は右手にスカーフ、左手を腰に当て、左足を少し前に出して膝を曲げ、つま先を床に着け踵を挙げたポーズで立ち止まります。DVDを静止させてこの時の二人の立ち姿を見てください。別に何もしていないでポーズを作っているだけなので、踊りというほどでもありませんが、この立ち姿を観ただけで明らかにキャロル・ヘイニーの方がうまいというのがわかります。

 表情の作り方(黄色の女性はなんか頼りなげですね)、腰と重心の落とし方(黄色の女性は下半身と上半身のつながりが切れて、上半身は変に胸の方へ力が浮き上がっています。ヘイニーの方は腰が十分に落ちているばかりか、体の中心軸を通して重みが下方へかかっているので、なんとも言えない安定感があるとともに、これからの躍動をも予感させます。)、体の持つ質的な違い(ヘイニーの体は筋肉が張ってそれ自体からセクシーさが溢れています。太ももや首から胸の部分が大きく出ているのも有利ですが、左足の脛だけとっても決まり方が違うと思います。)など、ちょっと観ただけでこれだけの違いがわかります。
(続く)

ジーン・ケリー その2 「 たたずまい」2006年11月06日 00時06分15秒

Kelly
 

 一つ一つの要素として挙げていくと「なんだ」ということになりますが、私達はその姿を見た瞬間、直感的にダンサーの質と構造をその立ち姿から見取り、評価するのです。その瞬間の印象が優れていると私は「たたずまい」という言葉で表現したくなります。「たたずまい」は本来価値判断から中立的な言葉かもしれませんが、私にとっては言葉自体が褒め言葉です。踊りは動くものかもしれませんが、実はこのたたずまいの中にダンサーの能力と魅力が凝集されていて、そのダンサー独自の風格や特徴が伝わってくるのです。これに魅力を感じさせないダンサーはいくら動きでごまかしても面白みがない。「踊りの色気」と言い換えてもよいかもしれない。

 キャロル・ヘイニーについてはいずれまた書きたいと思います。しかしここはケリーに話を戻さないといけない。「たたずまい」の話を出したのは、ケリーこそ瞬間瞬間のたたずまいに様々な質と構造を含んで、まさに魅力の宝庫といえるからです。
 
 ケリーの姿を見るとき、彼がよくとる立ち姿は、頭からお尻までの体幹部を一体としながら、股関節で大腿部を前方に曲げさらに膝を軽く曲げた姿勢です。つまり体幹部に対し脚が常に前に出ています。アステアが上半身から下半身までほぼ真っ直ぐ、すなわち一見棒立ちのような姿勢をとるのと大きく違います。このときケリーの体幹部は全体とすれば重力に任せてかなり脱力し、リラックスした状態にありますが、下肢は体より前に出ているので体幹部の重みを支えるためにかなりの筋力を必要とすると思われます。彼の踊りがアスレチックだとか力が入っていると言われながら、硬さをあまり感じさせない矛盾の原因はこんなところにあります。つまり頭部と体幹部は一体となって重力にまかせてリラックスしたまま落下しようとするのを、脚(とくに大腿部)の筋力で支えるという基本構造をこの人がかかえているからです。

 下肢で支えないとおそらくお尻からストントと尻餅をつくことになるでしょうから、下肢はかなりの重さを支えなければならず、当然相応の筋力を必要とすると思われます。ケリーを評して重心が低いとか、地面に接近して踊るのを好むと言うのも、この構造の必然的な結果です。お尻から落ちて行こうとするものがアステアのように上方に浮き上がる印象を与えることはありえません。頭部から体幹部のリラックス感と下肢の力感。矛盾する二つの要素をこの人は持っています。下肢の筋力のため、当然タップは力強くなります。

ジーン・ケリー その3 「膨張する肉体」2006年11月07日 01時37分34秒

kelly and Oconnar

さてこの写真はドナルド・オコナーとの共演。「雨に唄えば」から”Moses Supposes”のナンバーです。なかなかちょうど良いシーンがキャプチャーできませんが、先ず観て行きましょう。

 ここでは上半身に注目して下さい。その時々の動作が入るので解かりにくいかもしれませんが、オコナーの上半身がスッとした感じなのに比べ、ケリーの方は「ムーッ」と質量感を持って何か語りかけてくるような印象を受けます。胸の中央、胸骨上に、高さで言えば喉仏とみぞおちの中間かその少し上あたりに、この人は何か強いエネルギーの塊のようなものを持っています。彼が動く時、まずこの部分から動き出して波動が上方の喉の方向と左右に向かって行きます。これがケリー独特の「胸で何かを語りかける」動きの原動力です。この動きの結果、顎も随分上がって顔はほとんど上を向いていますが、これが彼の明るさを観ているものに印象付けるのです。彼の顔自体もさわやかで明るいのですが、本当に心の底からの喜びを表現しているのは、この上胸部から喉にかかけての開放された躍動感です。ちょうど、胸と喉の境目に大きな口があって、それが大きく開かれて笑っていると想像してもよいかもしれません。

 胸の中央を発信源に左右に向かう波動は胸の側面というのか、脇の下というのか、このあたりに伝わり、一見胸が左右に膨張して行くような感覚を与えます。この動きは一部腕の動きにも影響を与えますが、この常に続く動的な膨張感が、胸の筋肉の質感とあいまって、いつ見ても絶えずどこかしら動いている印象を与え、ケリーの踊りの動的な面白みにつながっているのです。

ジーン・ケリー その4 「支点」2006年11月23日 22時15分55秒

ジーン・ケリー 支点
  
 
 これは「舞踏への招待」でアラビアの少女?(もちろんアニメーション)と踊るシーン。ケリーのキャリアの衰退の始まりに当たる時期といってよいのでしょうか。野心作であるにしても映画としての出来はほめられませんが、このシーンはすばらしい。水彩画というのか、少し水墨画風の淡い色彩の中を睡蓮の葉に乗り、水の上を文字通り滑るように進むうちに、ロマンチックな感情が高まって来ます。

 このとき蓮の葉に着いた左足はもちろん体重を支えているのですが、宙に浮いた右足の方がまるで後ろにある壁をけっているように後方に延び、その反作用としての力が腰から体を通過し右手の先まで延びています。胸のラインに沿った首から顔の曲線、左腕の返し具合もバランスよく、絶妙ですが、なんと言っても、右足先から右手指先に続く延び続けるような力の流動感がこの人の持ち味です。また、肩周辺の筋肉が発達しかつ機能的に結びついているため、肩関節で力や動きが途切れず、下半身からの力の流れが安定かつ滑らかに指先まで伝わって行く感覚を見る者に与えます。

 この力の身体内での伝達を可能にしているのが体内での「支点のつくり」と「溜め」です。体の中に支点を作り、その支点にエネルギーを溜め込みながら次から次へと波動を伝えて行くのですが、支点と支点の間隔が短くなれば波動は滑らかになり、流れるように伝えられます。
 梯子を上るとき一段目(支点)に足を掛けギュッと体重がかかったところでそのエネルギーを利用しもう一方の足を上げ次の段を踏むといったことを繰り返しますが、それと同じようなことを体内で行うのです。前回書いた胸の動きもそうですが、おそらく腹の中や股関節周辺にも同様の「装置」があって、それらが支点となり波動のエネルギーをいったん溜め、さらに増幅して体内を伝えていると思われます。

  この流動感を気持ちに乗せ、ある意味、過剰にあざとく見せてくれるのがケリーの魅力といえるでしょう。

ジーン・ケリー その5 「 ガシッ!!」2006年11月24日 00時34分41秒

Kelly and Cyd

 
「雨に唄えば」から「ブロードウェイ・バレエ」のシーン。

まあこの写真だけではわからないでしょうから、DVDででもよく見てください。田舎者のケリーがメガネを蹴飛ばされたり散々シド・シャリースに翻弄された後、怒って彼女の腕を取り、強く引いて抱き寄せます。
この間の動きを観察すると、かなり力をこめて引っ張り込み、まさに「ガシッ」という感じで受け止めます。もちろんケリーが女性を抱くときにいつもこんなに力をこめているわけではありません。逆にほとんどの場合はやさしくそっと抱いているのでしょう。しかし現代的な男女の感情を表現しようとしたらこういう力強い、ある意味暴力的な表現方法が必要になってきます。アステアだったらありえない(あるいは必要ない)表現です。ケリーの感情表現、そして彼がミュージカル映画のダンスによってこれから描こうとしていたものが、このような表現法を必要としたのです。


  多くのミュージカルにプロデューサーや音楽監督として関わったソール・チャプリンの自伝(the Golden Age of Movie Musicals and Me)を読んでいたら、製作現場でのジーン・ケリーの逸話がいくつか出てきました。

「カバーガール」では監督のチャールズ・ヴィダーと口論から殴り合いの喧嘩になることが再三あり、そのたびにハリー・コーン(大物だ!)が仲裁に呼び出された。
  反面、ソール・チャプリンに対し、「(相手役の)フィル・シルバースの役はできるだけ面白くしてやってくれ。おれのことは心配するな。自分でどうにでもできるから。」と言っています。

「私は驚いた。こんな自分勝手でない役者をみたことがなかった。彼が自分の役だけを考えていたのではないことは明らかだった。この映画全体を考えていたのだ。ジーンとはその後何度も仕事をともにしたが、その態度が変わることはなかった。彼は常に作品全体を考えていた。実際のところ、自分のことは自分でどうにでもできたのだ。」

「魅惑の巴里」で共演したケイ・ケンドールは、誰にでも初対面のときから旧友であったように思わせてしまう魅力的な人物だったが、ケリーとは別だった。きっかけは何だかわからないが二人はドレッシングルームで悪口雑言のかぎりに罵り合う。ところが、これじゃ今日の撮影はもう出来ないと皆が思っていると、ケリーはケイ・ケンドールと腕を組み、冗談を言い合いながら何事もなかったように現れる。

そういう人なのである。



とりあえずジーン・ケリーについてはひとまず終わりです。
何か一番重要なことを忘れているような気もしますが、今はしかたがない。

いずれ他の人を書く中で、また触れることになるでしょう。