キャロル・ヘイニー その2 「ハードワーク」 ― 2007年01月01日 03時31分36秒
キャロル・ヘイニーは1924年、マサチューセッツ州ニューベッドフォードの生まれ。銀行で出納係として働く父親と母、姉一人の家庭です。
五歳のときからダンスを習い始めますが、ゴルフボール工場で働いたり、ソーダ売り、レディースクラブで踊るなどで貯めたお金で、ハイスクール時代にはすでに自身のダンススクール "Miss Haney's School of Dance" を開いています。
アルバイトと学校以外にも他の町へ出かけてダンスの勉強を続けるなど、「自己破壊的」とか「ダンサー特有のマゾヒズム」と形容される彼女の生き方はこの頃から明らかだったようです。ダンスのほかにも公演用に衣装をデザインするなど芸術的な才能に富み、ハイスクールを卒業する頃には125人の生徒をかかえるようになっていました。
卒業後、1942年にカリフォルニアに移り住みます(生徒と学校はどうなったんでしょう?)が、カリフォルニアではマージ・チャンピオンの父、Ernest Belcherとリタ・ヘイワースの父、Eduardo Cansinoからレッスンを受けています。(ということはボールルームダンスとスペイン舞踊の経験もあるということになるんでしょうか?)
ここでも様々なアルバイトで生計を立てながらナイトクラブで踊り、時に映画の仕事も得ていたようですが、膝靭帯のけがで一時休養。 ナイトクラブの仕事に復帰したとき振付家ジャック・コールの目に留まり、ジャック・コール・ダンサーズの一員として全米を巡業する傍ら、彼の関係する映画でも踊るようになります。
ちなみにジャック・コールは「紳士は金髪がお好き」や「ギルダ」、「ジョルスン物語」、「魅惑の巴里」などの振付をしていますが、対外的な評価よりもダンサーたちからの評価が高く、「伝説」と呼ばれるほどの人物だったようです。殊に東洋風の要素を取り入れた振付に特色があり、その一部は「魅惑の巴里」でも見ることができます。
彼の一座にはヘイニーより先にジーン・ケリーのアシスタントをしていたアレックス・ロメロも在籍していましたし、彼女がケリーのアシスタントになるのと入れ替わるようにグウェン・ヴァードンも参加しています。
1946年から48年?の間はジャック・コールのアシスタントやパートナーをつとめていますが、彼の厳しいトレーニングの下でヘイニーの踊りのスタイルが作り上げられたと言われています。
MGMのオーデションを受け採用された後はすぐにその実力が認められ、” a Day in New York” に登場。1950年には正式にケリーのアシスタントとして採用され、ここから6年間のアシスタント時代が始まることになります。
キャロル・ヘイニー その3 「ジャンプ」 ― 2007年01月01日 23時49分38秒
この辺でこの時期のキャロル・ヘイニーの踊りについて考えてみましょう。
といっても、どうこう言える材料は 「踊る大紐育」の ”a Day in New York” しかないわけですが・・・・。
さて、上の写真を見てください。小さくて解かりづらいので、クリックして拡大したものをよく確認していただきたい。左端の緑のドレスの女性がヘイニー。高い台の上で一斉にジャンプしているところですが、彼女だけなんだか全身がスッとリラックスして、飛び上がっていると言う無理な感じがありません。脚も左右にバランスよく開きながら伸びてきれいです。腹筋のあたりにも無理な力がかかっていません。
さらに他の女性と較べてほしいのは首から上胸部にかけての部分です。中央のヴェラ=エレンは服のせいもあるのでしょうが少し首が詰まったような印象ですし、黄色の女性は首は伸びているものの、逆に無理に首だけ伸ばしているといった感じで不自然です。これに対しヘイニーは首から胸にかけてものびのびとしてリラックスしています。
このように自然な形で彼女がジャンプできるのは、彼女の体を縦に貫く中心軸が非常にしっかりしているからです。
ジャンプするとき体全体を持ち上げるのでなく、この中心軸だけをポンポンと跳ね上げる感覚でジャンプしているため、体の他の部分に無理な力がかかっていないのです。本人が自覚してやっていたのか、はなから当然のこととして無意識のうちにやっていたのかは分かりません。
このあと三人の女性だけが床に下り、体を右、左と切り返しながらカメラに向かい接近し、最後に体を返して後ろ向きとなり台にもどっていきます。この正面を向いての最後の切り返しでも、他の二人は早く体勢が崩れ体が左右に「開いた」格好になるのに対し、ヘイニーは最後まで左半身を前に出した姿勢が崩れません。
このように中心軸が出来上がった人は中心軸に対して体の他の部分がリラックスしてぶら下がっている状態になるため、体全体に力みや癒着がなくなりのびのびしています。そのため美しい形が崩れにくくなるばかりか、観客にも一種の爽快感を与えるのです。
ただこの人の場合、腰や腹がしっかり出来ていて、全体に重みのある質感を備えているため、一見すると中心軸型というより腹型の人のように思われます。しかしどんな体勢をとっても中心軸がしっかり利いているという意味では、どちらにも偏らない非常にバランスの良いダンサーと言えるでしょう。
全体的な踊りの印象はこの人にしてはあっさりしているように感じますが、それが24歳という年齢や当時の技術のせいなのか、皆に合わせての振付に拠るものなのかはわかりません。
キャロル・ヘイニー その4 「アシスト」 ― 2007年01月03日 00時35分09秒
「舞踏への招待」でアニメーションにされる前のヘイニー(「ザッツ・ダンシング」より)。
一瞬のたたずまいに愁をおびた愛情が伝わってきます。
ロマンティックな曲を踊る彼女の貴重な映像なので、うまく編集して、ぜひ一曲分まるまる見せていただきたいものです。
1950年から1956年はジーン・ケリーのアシスタント時代です。MGMにたどり着く前にもコロンビアやWBでコーラスとして踊ったり、スターの指導をしていますが、どのプロデューサーからも「写真映りが悪いのでミュージカルスターにはできない」と切り捨てられてきました。そこでケリーから「このままコーラスを続けて才能を無駄にするより、これまでの経験を生かして振付のアシスタントをフルタイムでやってみないか」と勧められMGMと契約することになります。その後の彼女のケリーへの忠誠と敬愛は多くの本やインタヴューに証言されています。
それではアシスタントとしてどんなことをしていたのでしょう。
振付ではアイデアを彼女が出し、良いものをケリーが採用する場合もあったようです。当然、実際に踊ってみることも必要でしょう。ケリーのアイデアや振付を他のダンサーに伝える役目もありました。さらにケリーでは手が回らない個々のスターの指導は、彼女やジニー・コインが受け持つことになります。
「巴里のアメリカ人」ではレスリー・キャロンやジョルジュ・ゲタリーを指導しています。とくにゲタリーの唄う「天国への階段」では、彼もヘイニーも疲労で崩れ落ちたと言うくらい徹底的にやっています。この場面でのゲタリーの動きはヘイニーを完全に模倣したものだそうです。またこの場面でのすべての動きを掌握していたため、撮影時、階段の照明のコントロールまでまかされています。
ケリーがロートレックの絵を模して踊る場面も、「力強いダンス」が必要だったため、彼女の踊りのスタイルが大きな助けになったようです。
「雨に唄えば」ではデビー・レイノルズへのダンス指導のほか、シド・シャリースのベールを使ったダンスでは、ベールを風になびかせるためジニー・コインとともに航空機用のエンジンの操作までしています。またドナルド・オコナーの「Make' em Laugh」ではオコナー、コインと三人でオコナーの即興を一つにまとめあげる役割も果たします。
「ブロードウェイ・バレエ」での経緯はすでに書いたので省きます。
「舞踏への招待」ではフランスの田舎に家を借り、ケリー、ヘイニー、コイン、秘書ら数人で数ヶ月を過ごし、振付の構想を練ることになります。
また第二部の「リング・・・」はヘイニーとコインのカウントだけとか、仮の音楽に合わせて撮影されます。作曲のアンドレ・プレヴィンは約三十分の無声映画を渡され、これに曲をつけることとなります。そのため録音室にプレヴィンとヘイニーが約三週間、朝九時から深夜まで詰め、ひとコマひとコマ、タイミングをあわせケリーの振付の意図やテンポを考えながら音楽を付けていったのです。
ケリーとの共同作業は1954年の「ブリガドーン」まで続きます。
キャロル・ヘイニー その5 「旅立ち」 ― 2007年01月03日 03時54分44秒
「キス・ミー・ケイト」(1953)から”From This Moment On”。
相手はもちろんボブ・フォッシー。
どうしてこんな場面を出したのか。
ヘイニーの顔が異様に正面を向いています。
体を回転させたフォッシーとヘイニーは急に身をかがめ上のポーズをとります。一瞬のことなので、この脚の位置から考え フォッシーのように上体を左にひねり、顔もそれに任せるのが自然と考えられますが、ヘイニーは上体を深く折ってあくまで顔を正面に向けます。流れで見ていくと気づきにくいのですが、コマ送りで見ると、どんなときも顔から体の線が常に正面を向いた「良いかたち」を最後まで保っているのがわかります。
瞬間、瞬間の姿勢にも崩れを見せない彼女の能力の高さには舌を巻かざるをえません。出来あがった中心軸とそれに沿って落ちた重心の安定感がみごとです。フォッシーが明らかに優れているのは「抜き足差し足」?で歩くシーンくらいなものです。
もっともヘイニーの重みの伴った躍動感と、フォッシーの軽みは良いコンビネーションだと思いますが。
「将来のアステア」と嘱望されMGMと契約したにもかかわらず、与えられる役もだんだん小さくなるフォッシーはフラストレーションを募らせ、振付のハーミーズ・パンに自ら踊るパートの振付を申し出ます。一方、パンのアシスタントの仕事を割り振られたヘイニーは、自ら踊りたい気持ちを抑えがたく、これも希望しジニー・コインとともに出演することになります。葛藤をかかえた二人が交錯したとき衝撃が走ります。
静寂と激しさをジャズのビートに乗せ、骨盤の突き出しやスライディングなどこれまでにない動きを組み合わせたフォッシーの振付は、現場の共演者やスタッフも息をのむ出来だったばかりか、ブロードウェイのプロデューサーの心も揺さぶります。企画中のミュージカル「パジャマ・ゲーム」の振付を依頼されたフォッシーの出した条件はただ一つ。キャロル・ヘイニーの出演でした。
MGMの仕事に未練のあったヘイニーは、ブロードウェイでジョージ・アボットのオーディションは受けますが、とってかえして「ブリガドーン」の仕事に戻るとともに、次の「いつも上天気」のアシスタントもするつもりだったようです。しかしオーディションで採用が決まると、プロデューサーのアーサー・フリードからMGMとの契約の解消を許され、ブロードウェイに向かいます。
スターへの道が待っています。
それにしてもジニー・コインの踊りは他のメンバーに較べると一枚も二枚も落ちます。
キャロル・ヘイニー その6 「病」 ― 2007年01月04日 01時33分50秒
「パジャマ・ゲーム」(1957)から「スティームヒート」
舞台で主演したジャニス・ペイジ以外、ほとんどそのままのキャストで撮影されたため、ヘイニーのせりふと演技を知ることができます。もちろん踊りも演技もみごとですが、そのやせようには愕然とします。別人かと思いました。
映画の撮影中、彼女の糖尿病が明らかになります。疲労から撮影中何度も倒れ、現役のダンサーとして長くやっていけないことを自覚したといいます。
ダンスを見ると動きは軽快ですが、体のせいか彼女の特質であり長所でもある重みが消えています。フォッシーの振付自体そういうものを要求していないでしょうが・・・・。(これについて書きたいことはありますが、いずれフォッシーの項で述べることにします)
舞台の「パジャマ・ゲーム」はマスコミや批評家の大絶賛をあび、ヘイニーは「今シーズンの大発見」とまで讃えられます。お祝いにはソール・チャップリンやケリー、ドーネンらもハリウッドからかけつけました。最終的に、1955年度のトニー賞ミュージカル部門の最優秀助演女優賞の栄誉にも輝いています。
演技力が未知数だったため、当初の構想では彼女の役はせりふが三行の小さなものでした。ところが演じさせてみるとコメディーセンスにあふれ、他の役者がやるとつまらないセリフも、彼女だと大うけします。そこで他の役まで吸収して彼女の役がふくらみ、最終的な「グラディス」ができあがったのです。主演のジャニス・ペイジは自分の役まで盗られるのではないかと不安に陥ったそうです。
他方、この時期、ロジャー・イーデンスから映画「ファニーフェイス」のヒロイン役を提案されていますが、結局彼女の顔やスター性では主役は無理と判断され、オードリー・ヘプバーンにお鉢が回ることになります。
また、ハリウッドの大プロデューサー、ハル・ウォリスが評判を聞きつけ舞台を見にやって来ます。ところが彼女は足首を捻挫して休演中。代役のシャーリー・マクレインの方が目に留まり、映画界に招かれることになります。
皮肉な話です。
ともに「スティームヒート」を踊り、友人でもあるバズ・ミラーは言っています。
「いざ喝采を浴びたり世間の注目を集める段になると、必ずキャロルは具合が悪くなる。こんなに批評家からほめられ、ハリウッドからはプロデューサーが来る。すると足首を痛める。そういう風になってるんだ。みんなそうなるだろうと思ってたよ。まあこのなぞを解くのはフロイトにしかできないだろうね」
キャロル・ヘイニー その7 「矛盾」 ― 2007年01月07日 02時24分34秒
ワーナーブラザース作品「二人でお茶を」(1950)。まだMGMとの契約前です。
コーラスの一人ですが、ダンス指導の中心的役割をはたしたらしく、二十秒近く映っています。床に吸いつくような腰の安定感、無理のない体の反りなど他のダンサーとはひと味もふた味も違います。共演したジーン・ネルソンからワーナーでスタッフとして働くように勧められますが、上層部に見る目がなく、契約にいたりませんでした。
「パジャマゲーム」の成功後、テレビのショーや舞台のストレートプレイへも出演しますが、体力の衰えなどから再び振付の仕事が主になって行きます。とりわけ、1958年の「フラワー・ドラム・ソング」(演出はジーン・ケリー)、1962年の"Bravo Giovanni" 、バーブラ・ストレイサンドの出世作「ファニーガール」(1964)では、いずれもトニー賞の振付部門にノミネートされています。しかし自分を痛めつけるような仕事へののめりこみは、過度の飲酒も重なり、ますます健康をむしばんでいきます。1962年には二度目の夫と離婚。そして「ファニーガール」公演開始二ヶ月後の1964年5月、気管支肺炎のため急死します。糖尿病と飲酒で抵抗力が落ちていたことが原因と言われています。
キャロル・ヘイニーの人生を辿ってみて、いくつかの感慨が湧いてきます。
「十代でダンススクールを開くほどの外へ向かうエネルギーと、ケリーを敬愛し助手として裏方に徹していく内向するエネルギーの矛盾」
「これほどの能力の持ち主がなかなか表舞台に立てないという、スター性も含めた”才能”の重層的な不思議」
そして、
「いざ表舞台に立ったとき、健康がその継続を許さない運命の皮肉」
です。
観ることのできる映像はわずかなのに、この項も予想外に長くなってしまいました。彼女の人生そのままに、埋もれながらも強いエネルギーを放つ映像に導かれたのだとしたら、時間も場所も遠く離れたところで、多少は日の目を見る役目を果たせたのかもしれません。
結局、何が幸で何が不幸かわかりませんが、私はこれからもただ残ったヘイニーの踊りを見続けるだけです。
追記
家族の話では、「子供の頃は変わったものを食べるのが好きで、クレヨンを良く食べていた。そのせいでのどが化膿し、あんなしゃがれた声になった」そうです。???
ジーン・ケリーには「Words and Music」(1948)の「十番街の殺人」を、ヴェラ=エレンでなく是非キャロル・ヘイニーと踊ってほしかった。
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