ギエムから考える その22006年10月20日 01時16分40秒

 クラシックバレーの裾野は広く、高いレベルの身体運動の宝庫である。中でも、世紀を代表するパレリーナの一人と目されるギエムの境地は、極まった身体の極北と言ってよい。そのギエムを一方の原型にすえミュージカル映画の踊りを考えてみることは、ショーダンスの枠を超え、踊り手を対象化して考える上で有用ではないだろうか。

ダンスを評価する場合、表面上まず目につくのはダンサーの身体能力やテクニック、そのダンサー独特の雰囲気といったところだろう。
 ギエムの場合のように「演じた役の感情を直に観客に感じさせる能力」も重要ではあるが、現実の問題として、生半なことでできるものではない。くわえて、この能力は身体能力や技術に支えられながらも、ある時点でそれとは独立して存在するという逆説的な構造をかかえている。

 ここでクラシックバレーとミュージカルの踊りの違いを考えてみたい。それは、一般に考えられるような表面上の技術や体の使い方、題材と内容の違いではなく、しばしば見落とされがちな基本的構造----つまり、体とテクニックが観客に与える基底的な感情とそれに対する観客の暗黙の要求の問題である。

 良く訓練された身体とテクニックの隙のなさはある意味で観客を直感的に緊張させる。その緊張を緊張として観客が受け入れるところから出発しているのがクラシックバレーやモダンダンスなど、いわゆる「芸術」といわれる分野である。
 他方、ミュージカルなど娯楽色の強い分野で観客が求めるものは、まず精神の弛緩や安らぎであり、踊りもそれを満足させる方向で作られることが多い (近年この境界は曖昧になっているが、ミュージカルコメディーの伝統が根強い1950年代までの映画の踊りはこう云ってもさしつかえないのではないか)。
 つまり踊りのジャンルとは、踊り手が観客に与える根源的印象と観客の暗黙の要求との共犯的作業に支えられている。
 
 変な喩えで恐縮だが、陸上の100m走に喩えれば、ひたすら速く走るさまと、そのための鍛え上げた肉体を観客に提示するのがクラシックバレーであり、観客をそれを受け入れる。 他方、ミュージカル映画のダンスの場合、100m走の形態はとるが、見る者も出走者も速く走ることに価値をおいていない。ここで重要視されるのは、走る姿かもしれないし、皆で走れる喜びかもしれない。
 この踊り手と観客との共同作業の中で、踊りの形態も技術やテクニックも内容も独自に形成され発展し、分野が生まれる。
 ミュージカルの踊りの難しさは、本来弛緩と安らぎを求めるジャンルにおいて、訓練を行き届かせれば緊張をはらんでしまう身体能力やテクニックを矛盾なくどう溶け込ませて行けるかというパラドックスに潜んでいると思われる。

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