シド・シャリース その1 「上達」2006年12月11日 00時59分24秒

シド・シャリース ジーグフェルド・フォリーズ

 「ジーグフェルド・フォリーズ」、開幕シーンのバレエ。なかなか良い形です。といっても、今回はこの写真の説明ではありません。

 シド・シャリースのダンスを初期の頃から見ていくと、二つのことに気づかされます。一つは、彼女の踊りがそのキャリアの中で明らかに進歩を続けたこと。そしてもう一つ、最終的に完成された独自のスタイルが作り上げられたことです。異論があるかもしれませんが、1950年代中盤から終わりまでの数年間、ミュージカル映画のダンスにおいて彼女が天下を取ったと私は思っています。それがミュージカル映画黄金時代の黄昏だったのは残念な話ですが。

  子供の頃から映画に出演している場合を除き、多くのダンサーは映画出演の初めからある完成度に達しています(というより、それだけ実力のある踊り手がスカウトされ映画に出演するわけですが・・・・) 。アステア、ケリーを持ち出すまでもなく、途中で技術やスタイルが明らかに変わったダンサーは稀です。しかしシド・シャリースは変わっていきました。それは純粋な技術の進歩であると共に、肉体の進化やそれによって表現されるエロティシズムの問題でもあります。その上達の過程を考えて行くにあたり、少し煩瑣ですが彼女のキャリアをたどってみましょう。

 シド・シャリースはテキサス州アマリロの生まれ(生年は1921年、23年、24年の諸説あり!!!)。バレエ好きの父親に影響され地元のバレエ教室に通うかたわら、自宅に据え付けられた練習用のバーや鏡の前で多くの時間を過ごしたといいます。
 1935年、一家はカリフォルニアのサンタモニカでひと夏を過ごしますが、このときハリウッドにあるファンション&マルコ舞踊スタジオでバレエのレッスンを受けることになります。このスタジオの教師だったのが、後に最初の夫となるニコ・シャリース。そしてもう一人は、かつてアンナ・バブロワのパートナーをつとめ、初期のバレエ・リュスのスターでもあったアドルフ・ボルムでした。
 一家はいったんアマリロに帰りますが、ボルムに才能を認められたシドは1937年ロサンゼルスに戻り、同スタジオの練習生になります。ここでロサンゼルス公演のため滞在していたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの主宰者バジル大佐に見出され、同バレエ団に入団。本格的なバレリーナとしての道を歩き始めます。
 
 その後約一年間、公演に参加しますが、父が怪我をしたためバレエ団を離れ、故郷に帰ることとなります。父の死後ロサンゼルスに戻ったシドは、ニコ・シャリースやあのニジンスキーの妹、ブラニスラヴァ・ニジンスカのもとでバレエの勉強を続けます。さらにバレエ・リュス・ド・モンテカルロに再び参加し、1939年のロンドン、コベントガーデンでの公演に同道することとなります。しかしニコ・シャリースのプロポーズを受け結婚したことから、彼女のバレエ・ダンサーとしてのキャリアは途切れます。
 
 ロサンゼルスへ戻り夫の経営する舞踊学校の補助教師をつとめながら、家事に明け暮れ、1942年には最初の子供を出産します。ところが知人でバレエ・リュスのダンサー、振付家でもあったダヴィッド・リシンから、彼が振り付けを担当するコロンビアのミュージカル「Something to Shout About」(1943年)の中で彼と踊るよう依頼されたことが映画界への足がかりとなります。映画自体は成功とは言えませんでしたが、当時「ジーグフェルド・フォリーズ」を製作中のダンス部門の責任者ロバート・オルトンに見出され、アーサー・フリードを紹介されます。ここからMGMと七年契約を結ぶとともに、芸名をシド・シャリースに変え、ミュージカルスターとしての活動が本格的に始まるのです。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック