エレノア・パウエル その10 「翳り」 ― 2007年02月27日 01時32分48秒

「Thousands Cheer」(1943)から。
初めての、そして遅すぎたカラー映画。
「踊るニュウヨーク」(1940)制作後、めまいや疲労のためエレノアはしばらく撮影から遠ざかります。1940年6月には胆石の手術も受けますが、合併症も重なり療養はさらに長引くことになります。しかし不在の間にスタジオの雰囲気も世間も変わります。次回作「Lady Be Good」の封切り(1941年7月)までの一年半に、彼女の人気は翳りを見せていくのです。
「ジーグフェルド・フォリーズ」
「美人劇場」
「Panama Hattie」
「Let's Dance」
「For Me and My Gal」
「Girl Crazy」
この前後エレノアのために企画されながら、主演を変更されたり制作が延期された作品です。この他、名前が挙がりながら制作中止となった企画もあります。直接の理由は権利上の問題から共演者の入隊までさまざまですが、根底に彼女の人気低迷があったことは間違いありません。
追い討ちをかけるように、この時期ジュディー・ガーランド、ラナ・ターナーらの人気が急上昇します。大衆もMGMも新しいスターに関心を向け、エレノアは忘れ去られていきます。
復帰作「Lady Be Good」もタイトルクレジットはエレノアがトップですが、実質的にロバート・ヤングとアン・サザーン演ずる作曲家夫妻が主役です。作品中でアン・サザーンが歌う”The Last Time I Saw Paris”はオスカーの最優秀歌曲賞を受賞しますが、この歌を入れたためにエレノアのナンバーが一つ削られ、彼女は割り切れない思いを抱いたといいます。
続く「Ship Ahoy」(1942)では、レッド・スケルトンと共演。興行も一応成功しますが、評価の低落傾向に歯止めがかかりません。再び彼とコンビを組んだ「I Dood It」(1943)では、ついにクレジットのトップをスケルトンに明け渡すこととなります。「I Dood It」は作品としても不評でしたが、そればかりかプロダクションナンバーの一部に「 踊るアメリカ艦隊」や「踊るホノルル」で撮影したフィルムが使われています。このような経費削減の方針からも、MGMにおける彼女の地位の低下を推しはかることができます。
1943年、映画「Thousands Cheer」にゲスト出演したのを最後に、エレノアはMGMとの七年契約を解消します。ゲストで登場した「The Duchess of Idaho」(1950)以降、映画出演もありません。1959年、十五年連れ添ったグレン・フォードと離婚。61年から64年までラスベガスなどでショーに復帰し成功を収めますが、その後は再び家庭に戻り、教会関連の社会活動に専念することになります。以後、ブロードウェイから「ノー・ノー・ナネット」への出演依頼を受けたこともありますが、ショービジネスに復帰することは二度とありませんでした。
1974年以降、「ザッツ・エンタテインメント」シリーズにより彼女のダンスの素晴らしさが再認識される中、1982年2月、癌のため亡くなります。69歳でした。
人の評価は難しいものです。100点満点で70点の人に「こういう良いところが七割あって、悪いところが三割ある」と言う場合もあれば、50点でも、悪いところに目を瞑り長所ばかりを話したくなる人もいます。エレノア・パウエルの場合はまた違います。踊りに対しては98点なのに、捉えどころのない不足の2点がなぜか気になる・・・・・そういう人です。
その「ずれ」をなんとか表現してみようとしましたが、周辺をうろうろしたものの消化不良のまま終わってしまいました。何も知らない人が読むと、彼女が優れたダンサーだという一番大切なところが理解できなかったのではないかと心配です。しかたありませんが、いずれまたどこかで彼女について語ることもあるでしょう。
あえて混乱の言い訳をさせてもらえば、それもこれも、結局は彼女が過渡期の人であったということです。
エレノアのために企画されながらついに実現しなかった映画の名前を眺めているうち、ある題名に私の眼は釘付けになりました。
「”Broadway Melody of 1943” 共演 ジーン・ケリー」
私の空想は突然「戦争のなかったパラレルワールド、昭和18年の東京」に飛びます。
日比谷の映画館にかかる巨大な看板。
銀幕に踊るエレノアとケリー。
ミュージカルのレトロフューチャーはどんな形をとったのでしょう。
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