ドナルド・オコナー その2 「生い立ち」 ― 2007年06月01日 00時56分24秒
”On Your Toes" (ワーナー、 1939年)
真ん中がオコナー。
実生活同様、ヴォードヴィル芸人一家の少年を演じています。
ドナルド・デイヴィッド・ディクソン・ロナルド・オコナーというおそろしく長い名前の男の子は、1925年8月シカゴでサーカス芸人の一家に生まれます。
父親はリングリングサーカスなどで活躍し、身長165センチにもかかわらず体重が90Kg以上。象の背を飛び越える跳躍芸から空中ブランコ、はては怪力芸までこなす多彩な芸の持ち主でした。母親はダンサーであるとともに空中ブランコや曲馬もこなしたといいます。
ドナルドの生まれる少し前、一家は仕事の場をヴォードヴィルに移します。一座の名前は「ザ・オコナー・ファミリー」。その結果ドナルドは生後三日目からバスケットに入れられ舞台に立つ(?)ことになります。ところが父親はドナルドが一歳にもならないうちに他界。残された母親はドナルドの二人の兄ジャック、ビリーとともに一座を守り立てていきます。しかし評判の良かった一座を1929年、大恐慌が襲います。
のちにドナルドは語っています。
「五歳のときにすべてがひっくり返ったんだ。1929年にはニューヨークのキャピタル劇場で客席を沸かせていたのに、一年後には、満足にステージもないちっぽけで変なにおいのする横丁の劇場にいたんだ。二日間だけの契約で、一日四回興行。ママにビリーにジャックと僕、ジャックの嫁さんのミリーに娘のパツィー、みんなが入り口で着替えるのさ。興行の終わりにもらうのが12ドルの小切手。五人でだよ。
その次の年になると、ナイトクラブで五ドルもらってなんとか食いつないでいたのさ。でも誰も他の商売に鞍替えしようなんて考えなかったね。みんなでプリマス・ホテルに住んでたんだけど、下の階にあるドラッグストアのおじいさんがピンボールで一ドルか二ドルよく勝たせてくれたのを覚えてるよ。」
「お腹がすくと(友達と)ナイトクラブに寄ってちょっと踊って見せるんだ。そうすると夕飯を食べさせてくれるんだよ。
でもママにはつらかったと思うよ。ママには---僕にとっても同じなんだけど、働いてないことは耐えられないのさ。どんな興行だろうが、小切手の額が多かろうが少なかろうが、仕事がないってことは自尊心を失うことになるんだよ。」
年月の経過とともに大恐慌の影響も薄れ、オコナー一座をめぐる状況も徐々に良くなっていきます。
しかし1930年代はヴォードヴィルの衰退が明らかになった時代でもあります。多くの劇場が閉鎖されたり映画専門館に模様替えする中、ヴォードヴィリアンの多くも苦境に立たされていきます。
ドナルド・オコナー その3 「The Jivin' Jacks and Jills」 ― 2007年06月02日 00時53分09秒

”Private Buckaroo”(ユニヴァーサル 1942年)より
"James Session" を踊る The Jivin' Jacks and Jills
オコナーは左端の軍服姿(たぶん)
隅に追いやられて、ダンスシーンはあまり映っていません。
踊りながらチラチラとわきのダンサーを見るので、いかにもダンスに自信がないように感じられます。
1937年、11歳のドナルドは兄のジャックやビリーとともに、クレジットにも出ないダンサー役で映画”It Can't Last Forever”に出演(“Melody for Two” 説もある)。以後1939年の”On Your Toes"までに計12本の映画に出演します。ほとんどは小さな役ですが、「ボー・ジェスト」(1939)では主人公ゲーリー・クーパーの少年時代を演じています。
その後ドナルドは舞台に戻り、家族とともにヴォードヴィルで活躍しますが、ユニヴァーサルのスカウトに見い出され、1942年から再び映画に出演するようになります。
この頃ユニヴァーサルでは十代のダンサーで構成されたグループJivin' Jacks and Jills(総勢十数名)をつくり、低予算のミュージカルで同世代の観客を惹きつけようとしていました。ドナルドもこの一員として、ペギー・ライアンやグロリア・ジーンの相手役をつとめることになります。
ここで問題になったのが彼のダンスの能力でした。ドナルドは三歳から、タップダンスをはじめ歌やアクロバットにいたる芸を仕込まれています。しかしヴォードヴィルでは、それぞれの芸人の十八番を観客が期待するため、同じ芸の繰り返しになりがちでした。彼のタップはレパートリーが少なく、また新しいステップや振付を覚えるのも苦手だったようです。その結果グループで踊ると、コンビの(踊りの上手い)ペギー・ライアンともども後の列に追いやられてしまうのでした。
ところが最初のJivin' Jacks and Jillsの映画が公開されるとファンレターがドナルドとペギーに殺到。そのため二人が役の上でもダンスでも中心になっていきます。二人はMGMのジュディ・ガーランド=ミッキー・ルーニーコンビに対抗する、ユニヴァーサルの廉価版ペアになったのです。
当時のドナルドは週給600ドルに過ぎませんが、毎月ユニヴァーサルには35,000通のファンレターが届いたそうです。1943年になるとドナルドをはじめとするJivin' Jacks and Jillsのメンバーが徴兵されていきますが、ユニヴァーサルはそれを見越して、それまでに計十四本のJivin' Jacks and Jills映画を撮影しておき、彼らが不在の1945年までの二年間にも、年三本のペースで「新作」を配給して行ったのです。
軍隊では慰問の仕事に従事したドナルドは、除隊とともにユニヴァーサルに戻り新しいキャリアを築くことになりますが、ファンにとってはつい最近まで新作が公開されていたので、少しもギャップを感じなかったようです。
ドナルド・オコナー その4 「貸し出し」 ― 2007年06月03日 02時06分38秒

”Something in the Wind”(1947)より
ユニヴァーサル復帰第一作
除隊後適当な企画がなかったため、ドナルドは一時舞台へ復帰します。
1947年スクリーンへ戻った彼は、主役のはれるコメディアンとしての地位を確立し、コメディー映画やミュージカルに出演。さらに1950年からは、喋るラバ「フランシス」シリーズ(後のTVシリーズ「ミスター・エド」の原型。こちらは喋る馬ですが・・・)に主演し、大衆的な人気を不動のものにします。「フランシス」シリーズはドナルドの主演で55年までに計6作を制作し(最後の7作目はミッキー・ルーニーが主演)、低予算の作品ながらユニヴァーサルに多大な利益をもたらします。
またTVでも「コルゲート・コメディー・アワー」のホストの一人を1951年から54年まで務めるなど活躍し、歌に踊りに演技にと、その多彩な才能を賞賛されるようになります。しかし当時のユニヴァーサルには彼の才能を十分に発揮できる水準のミュージカル映画を作る能力がなく、その目的を果たすためには他社への「貸し出し」に頼ることになるのです。
1950年の多忙な中、ドナルドは週給一万ドルで五週間の英国ツアーを行いますが、ロンドンのパラディアム劇場に出演中、MGMから電話がかかります。ユニヴァーサルとは話がついたので「雨に唄えば」に出演してほしいとの内容でした(出演料は五万ドル)。
もともとジーン・ケリー扮する主人公ドン・ロックウッドの相棒コスモ・ブラウンの役は、アーサー・フリードの構想では「巴里のアメリカ人」に続きオスカー・レヴァントが演じるはずでした。しかし制作を進める中で作品の雰囲気が明らかになると、レヴァントの辛らつさが全体の明るさにマッチしないと、ケリーやスタンリー・ドーネンは考えるようになります。脚本のコムデンとグリーンも同意見でした。
四人はフリードを説得し、なんとかオコナーを出演させることに成功します。ケリーにはオコナーと二人でコメディータッチのダンスを踊る構想があったのです。作品のストーリーや雰囲気にマッチした二人の配役が決定したとき、最終的な成功は半ば約束されることとなります。
ドナルド・オコナー その5 「ジーン・ケリーの影」1 ― 2007年06月05日 01時17分03秒
ご存知「雨に唄えば」から“Make 'Em Laugh”
ダミー人形相手に照れながらソファの上で両足を組み替えます。
あまりに早いので右足の先がぶれて映っていません。
これから「雨に唄えば」でのオコナーのダンスについて考えていきます。
はじめに私はオコナーを買っていなかったと書きました。当初そう思った理由のひとつは、コミカルでアクロバティックな動きをできるだけ排した彼の踊りをじっくり見たいにもかかわらず、観ることのできる映像の中にそういったものが少ないこと。さらにその少ないダンスシーンにも本当に満足できる踊りが少ないという印象を持っていたからです。
今回彼のダンスナンバーを見返して再認識したのは、まあそうは言っても、ダンスシーンはけっこうあるということ。そしてもう一つ。何といっても「雨に唄えば」は、振り付け、撮影、美術も含め、彼のダンスの能力を最高に引き出した映画であることです。彼はその能力をすでにこの作品で十分発揮していたのです。しかしそれに私は気づかなかった。彼のダンスが何か一味足りないとずっと思っていた。なぜか。
この映画でオコナーが踊るのは、「冒頭一連の回想シーン」、「モーゼズ・サポーゼズ」、「グッド・モーニング」、「Make 'Em Laugh」の四場面ですが、「Make 'Em Laugh」以外はジーン・ケリーと一緒です。問題はここにあります。つまりケリーの魅力が、あたかも大きな傘の下で日が翳るように、オコナーの良さを隠してしまうのです。
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