ヴェラ=エレン その9「やせ過ぎ」 ― 2007年11月05日 01時02分09秒
1950年代、テレビ出演時
頬が削げ落ちている
出演作のない彼女は二十世紀フォックスに貸し出され、”Call Me Madam”(1953)に出演します。主演は舞台”Panama Hattie”で共演したエセル・マーマン。ヴェラ=エレンはヨーロッパの小国「リヒテンブルク」の王女を演じますが、王女の話し言葉は故郷のドイツなまりをヒントにしたそうです。
続いての出演作はMGMの”Big Leaguer”(1953)。彼女としては待望のドラマへの出演ですが、予算も少ない小品で評判も芳しくありませんでした。彼女自身もやせて、体に以前の張りがありません。この頃からファン向けの雑誌に「やせ過ぎ」とか「少しおかしいのではないか」と書かれるようになります。1954年の「我が心に君深く」ではゲストとしてケリーとの共演ナンバーが撮影されますが、最終的に映画から削られています。
冷遇が続く中、同年彼女はパラマウントに貸し出され、「ホワイト・クリスマス」に出演します。実は企画の無い彼女のため、アーヴィン・バーリンやロバート・オルトンが陰で口ぞえをしてくれたのです。
主演はビング・クロスビー。相棒役にゴールドウィン時代に共演したダニー・ケイ。ヴェラ=エレンは実際は年下のローズマリー・クルーニーの妹役を演じます。映画の中で襟の高い服を着ているのは、やせて衰えた首を隠すためと言われています。
この頃の彼女の言葉です。
「ミュージカルが年に一作じゃ少なすぎるのよ。その間コンディションを保ち続けるのがどんなに大変か、他人にはわからないわね。絵を見てくれる人のいない画家みたいなものよ。演技だけの人ならその間ゆっくり休む贅沢もできるけど、ダンサーはそうはいかないの。」
さて1950年から53年にかけ、彼女はロック・ハドソンと頻繁にデートし、マスコミを騒がせます。当然ながら当時彼のホモセクシャリティ(正確にはバイセクシャル)は一般には知られていません。しかし彼女はそれを承知し、結婚も期待していなかったようです。
他に俳優のロリー・カルホーンやディーン・ミラーとも付き合いますが、様々な理由から結婚にまで至りませんでした。
そんな中、彼女は有名なロスチャイルド家に連なるヴィクター・ロスチャイルドと、1954年11月に結婚します。ヴィクターはロスチャイルドの一族ながら家が貧しく、欧州から米国に渡った後、石油精製で財を成した人物です。
結婚のニュースがマスコミを賑わせている時期を捉え、MGMは彼女の出演予定作品をいくつか発表しますが、結局企画は流れます。
そして1955年、契約切れに伴いヴェラ=エレンはMGMを去ることになるのです。
結婚の喜びもあってか、この時期の彼女は一時的に体重も増え、健康そうでした。55年5月にはラスヴェガスで豪華なショーに出演しますが、残念ながら6月には打ち切られます。
56年、イギリスで”Let's Be Happy ”(1957)に出演。彼女の望む台詞の多い役でしたが、作品は成功とは言えず、映画出演もこれが最後となります。この頃、再び「やせすぎ」との評が目立つようになりますが、かかりつけの医師に従っての食事療法がかえって体重を落とす結果となります。
50年代後半、彼女はテレビのショー番組にもいくつか出演しています。しかし稽古時間も短く、狭いステージで周囲を気にしながら踊るテレビは、完璧主義の彼女にとって我慢のならないものでした。ついに59年、前の出演者が使った野菜が原因でダンス中に転んだ彼女は、以後TV出演を中止します。
映画、TVに出演しない彼女は、この後大衆の前でダンスや演技を見せることはありませんでした。
ヴェラ=エレン その10「不幸」 ― 2007年11月15日 00時23分06秒
1962年、やせた彼女と夫ヴィクター(中央)
1963年3月3日、42歳になったヴェラ=エレンは女の赤ちゃんを出産します。名前はヴィクトリア エレン。結婚9年目にして授かった子供に彼女はたいへんな愛情を注ぎます。
ところが三ヶ月後赤ん坊は急死。原因不明の突然死です。死亡時、夫も彼女も家におらず、母のアルマが一人で面倒をみていました。そのため、「母親が殺した」とか、さらには「そういった噂を夫のヴィクターが流した」などの風評が立ったほどです。
彼女の嘆きは一通りではありませんでした。不安定な精神状態から、一時うつ病にもなったようです。彼女は生涯赤ん坊の死を受容できず、子ども部屋も、衣類やオムツにさえも手をつけず、死んだときのままに保存します。
子どもの死は、もともとギクシャクしていた夫婦関係に決定的な影響を与えることになります。死にこだわり続ける彼女と無関心な夫の関係は冷え込み、ついに離婚に至るのです。
1966年9月、夫から出された離婚訴訟に対し、精神的に疲れ果てていた彼女は闘い続ける気力もありませんでした。住み慣れた家は勝ち取ったものの、他に大した財産もなく、元からの貯えと、月々の慰謝料、不動産からのわずかな収入だけで食べていかねばならなくなります。
二度目の離婚は肉体的にも大きな痛手となります。拒食症も影響し体力が衰え、年の割りに一層老けて見えるようになります。テレビ出演や雑誌の取材依頼を断わり続けたのも、外見に自信がなく、かつての映画のイメージを壊したくないという理由からです。さらに関節炎、高血圧が悪化。プロのダンサーとしての活動が困難になったばかりか、一時、歩行にさえ支障をきたします。
この時期以降、彼女はマスコミを避け、自分自身の生活スタイルを頑固に守り続けます。ダンススタジオでの稽古を毎日の日課に、他の時間は自宅で、いまだに来るファンレターへの返事書きなどに時間を費やします。服はたくさんあっても、決まった五、六着を着続け、付き合うのは少数の友人や親戚、故郷の人々とだけ。MGMに関係した人々との交流はまったくありませんでした。
1974年、「十番街の殺人」がはいるはずだった「ザッツ・エンタテインメント」に彼女の映像はなく、プレミア試写会も欠席します。続く「ザッツ・エンタテインメントII」にも出演映像がなく、彼女は深く傷つくことになります。
1970年代後半、自宅に数回泥棒が入った事から、周囲への猜疑心が強まります。女の一人暮らしと知られ高額な修繕費を要求されることを心配し、雨漏りがしても鍋やポットを置いてしのぎます。
警備員を雇ったり防犯システムをつける余裕もありません。庭やプールの整備にもお金がかかりますが、スターの体面を保つため、家も売ろうとしませんでした。そんななか、1980年2月、陰に陽にヴェラ=エレンを支えながらスターへの道を共に歩んできた母のアルマが介護施設で亡くなります
1981年、アステアに対しAFIより生涯功労賞が送られます。しかし、表彰式に招待された彼女が出席を断ると、その「報復」に記念の映像から彼女とアステアのダンスシーンが削除され、再び彼女の心は傷つきます。 この頃には、一層やせてレオタードとタイツのたるみがわかるほどだったそうですが、それでもダンスのレッスンは欠かしませんでした。
その年の8月、首の付け根の腫瘤をがんの転移と診断された彼女は、手術を避け、尊厳を守って人生を終える道を選びます。8月21日、新聞が外に貯まっていることに気づいた隣人が家にはいると、骨と皮だけのような彼女がベッドルームから出てきます。宗教的理由から医療を拒む彼女に、数日間隣人が食事を運びますが、このときでさえ「甘いものはダイエットに良くない」と言って食べなかったといいます。
その後友人らに説得されついに入院したヴェラ=エレンは、数日間の半昏睡状態の後、1981年8月30日に亡くなります。
享年60でした。
ヴェラ=エレン その11「エピローグ」 ― 2007年11月16日 00時44分26秒
おそらくゴールドウィン時代と思われるポートレイト
やっぱりこうでなくちゃ・・・・・・・・・
ヴェラ=エレンの人生は自身の肉体との戦いだったのだろうか。スターという夢を実現させるためダンスという手段を使わねばならなっかた彼女にとり、「ダンサーとしての体づくり」、「身長を伸ばす努力」、さらに「成熟した女性への変身」・・・・・と戦場を変えて戦いは続いた。そこには母親の願望、映画スタジオの圧力は当然あっただろう。しかし彼女自身の強い意志と完全を求める性癖が外からの願望や圧力と混成したとき、戦いは暴走し始める。
ヴェラ=エレンが神経性食思不振症(いわゆる拒食症)であったのではないかということは以前からささやかれていた。もちろん医師の診断を受けたわけではないので真相は藪の中である。
しかし病気であったか否かに関わらず、彼女にとってやせることはスターとして生き残ることであり、さらには「生きる」ことと同義であった。スターを目指しハリウッドまで来ながらゴールドウィンを首になったとき、MGMは単にミュージカル映画を撮るための最高の場所だけを意味しない。映画スターになりたいという自身と母親の願望を実現させるための一縷の望みでもあったのだ。
「腿をもっと細くしろ」「ウエストは18インチから20インチ」と要求するスタジオに彼女は過剰に適応した。いくら運動しても痩せるのには限界がある。結果としてダイエットにのめりこむ。食事もステーキと野菜か果物のみ(当時はこれがダイエットによいと考えられていた)。一日中コーヒーを飲み続ける。頬がふっくらしているのがよくないと、指で頬を押し続ける。
努力の末”the Belle of New York”でアステアと横並びの共演者という地位を手に入れたにもかかわらず、結果は惨敗。その後は逆に、苦労して作り上げた肉体がスターとしての地位の維持を裏切っていく。
最後の十五年間を語る言葉は私にはない。
しかしゴールドウィンにもMGMにもスターとして企画をなかなか実現してもらえなかったのは、本当にスタジオの無理解のせいだけだったのだろうか(この本の描き方はそうである)。いやしくもプロの制作者たるものがそろって同じ過ちを犯すのだろうか。私にはヴェラ=エレンの側にも制作を躊躇させる何らかの魅力の欠如があったと思えてならない。
彼女と接した人たちは異口同音に「優しく、思いやりのある」その態度を絶賛している。反面、普段の生活でつきあうのは、MGM以外のスターや映画関係者と親類縁者のみ。MGMの共演者とも一線を画し、撮影中も孤立していることが多かった。彼女自身は「ベストをつくしていればプロデューサーは使ってくれる」という考えだったようだが、日ごろの付き合いがなければよい仕事をもらえないのはどこの世界も同じこと。その面での大事な「仕事」が出来なかったことも彼女の欠点の一つであろう。
彼女の遺骨はカリフォルニア州サンフェルナンドの霊園に葬られている。墓石にはただ「VERA-ELLEN 1921-1981」とのみ標され、名前の左に彼女の踊る姿がシルエットで描かれている。一つおいて隣が母アルマの墓。二つの墓の間には墓石もなくただ草が生えているだけだが、そこに娘の亡骸が葬られていると云うことである。
最後に彼女の古くからのファン、ボブ・ジョンストンが作者に当てた手紙の最後の部分を訳して終わりにしたい。
1998年8月の暑い日、霊園を訪れた彼は苦労の末ようやく彼女の墓を見つけ出し、次のような感慨を書き記している。
「・・・・・・・・・・・あなたなら他の誰よりもこの気持ちを理解してくれると思うのです。墓の前で私がどれだけ絶望感に打ちひしがれたか、そして、人生で最愛の人々より長生きしてしまったことで彼女がどれだけ悲しかったかを。
これほど見つけるのに苦労する場所に彼女が打ち捨てられていることにわたしは戸惑っています。彼女の墓を見つけ、そこで祈りの言葉をささげることが出来たこと、そして彼女が求めていた本当の幸せをあの世で見つけることが出来たであろうと思えたことは確かにうれしいことです。
でももう一人の私は、今日経験したことをどう理解してよいのかわからないのです。今考えられるのはこのことだけです----『土を土に、灰を灰に、ちりをちりに帰すべし』。
彼女の出演映画とこの本の存在がどんなにありがたいことか。もしこれらがなかったなら、時とともに彼女の記憶は永遠に消え去ってしまうでしょうから。」
註:
この項は”Vera-Ellen: The Magic and the Mystery”(David Sorenら 著 Luminary Press 2003年)を基に書いたものです。
その1、7、11では、引用以外は私の考えを述べ、2-6および8-10は、主に本の内容を要約、編集したものです。
一部、事実の認定に疑問のある部分もありますが(アステア映画の初の赤字がBelle of New Yorkかなど)、本の内容のままとしました
やっぱりこうでなくちゃ・・・・・・・・・
ヴェラ=エレンの人生は自身の肉体との戦いだったのだろうか。スターという夢を実現させるためダンスという手段を使わねばならなっかた彼女にとり、「ダンサーとしての体づくり」、「身長を伸ばす努力」、さらに「成熟した女性への変身」・・・・・と戦場を変えて戦いは続いた。そこには母親の願望、映画スタジオの圧力は当然あっただろう。しかし彼女自身の強い意志と完全を求める性癖が外からの願望や圧力と混成したとき、戦いは暴走し始める。
ヴェラ=エレンが神経性食思不振症(いわゆる拒食症)であったのではないかということは以前からささやかれていた。もちろん医師の診断を受けたわけではないので真相は藪の中である。
しかし病気であったか否かに関わらず、彼女にとってやせることはスターとして生き残ることであり、さらには「生きる」ことと同義であった。スターを目指しハリウッドまで来ながらゴールドウィンを首になったとき、MGMは単にミュージカル映画を撮るための最高の場所だけを意味しない。映画スターになりたいという自身と母親の願望を実現させるための一縷の望みでもあったのだ。
「腿をもっと細くしろ」「ウエストは18インチから20インチ」と要求するスタジオに彼女は過剰に適応した。いくら運動しても痩せるのには限界がある。結果としてダイエットにのめりこむ。食事もステーキと野菜か果物のみ(当時はこれがダイエットによいと考えられていた)。一日中コーヒーを飲み続ける。頬がふっくらしているのがよくないと、指で頬を押し続ける。
努力の末”the Belle of New York”でアステアと横並びの共演者という地位を手に入れたにもかかわらず、結果は惨敗。その後は逆に、苦労して作り上げた肉体がスターとしての地位の維持を裏切っていく。
最後の十五年間を語る言葉は私にはない。
しかしゴールドウィンにもMGMにもスターとして企画をなかなか実現してもらえなかったのは、本当にスタジオの無理解のせいだけだったのだろうか(この本の描き方はそうである)。いやしくもプロの制作者たるものがそろって同じ過ちを犯すのだろうか。私にはヴェラ=エレンの側にも制作を躊躇させる何らかの魅力の欠如があったと思えてならない。
彼女と接した人たちは異口同音に「優しく、思いやりのある」その態度を絶賛している。反面、普段の生活でつきあうのは、MGM以外のスターや映画関係者と親類縁者のみ。MGMの共演者とも一線を画し、撮影中も孤立していることが多かった。彼女自身は「ベストをつくしていればプロデューサーは使ってくれる」という考えだったようだが、日ごろの付き合いがなければよい仕事をもらえないのはどこの世界も同じこと。その面での大事な「仕事」が出来なかったことも彼女の欠点の一つであろう。
彼女の遺骨はカリフォルニア州サンフェルナンドの霊園に葬られている。墓石にはただ「VERA-ELLEN 1921-1981」とのみ標され、名前の左に彼女の踊る姿がシルエットで描かれている。一つおいて隣が母アルマの墓。二つの墓の間には墓石もなくただ草が生えているだけだが、そこに娘の亡骸が葬られていると云うことである。
最後に彼女の古くからのファン、ボブ・ジョンストンが作者に当てた手紙の最後の部分を訳して終わりにしたい。
1998年8月の暑い日、霊園を訪れた彼は苦労の末ようやく彼女の墓を見つけ出し、次のような感慨を書き記している。
「・・・・・・・・・・・あなたなら他の誰よりもこの気持ちを理解してくれると思うのです。墓の前で私がどれだけ絶望感に打ちひしがれたか、そして、人生で最愛の人々より長生きしてしまったことで彼女がどれだけ悲しかったかを。
これほど見つけるのに苦労する場所に彼女が打ち捨てられていることにわたしは戸惑っています。彼女の墓を見つけ、そこで祈りの言葉をささげることが出来たこと、そして彼女が求めていた本当の幸せをあの世で見つけることが出来たであろうと思えたことは確かにうれしいことです。
でももう一人の私は、今日経験したことをどう理解してよいのかわからないのです。今考えられるのはこのことだけです----『土を土に、灰を灰に、ちりをちりに帰すべし』。
彼女の出演映画とこの本の存在がどんなにありがたいことか。もしこれらがなかったなら、時とともに彼女の記憶は永遠に消え去ってしまうでしょうから。」
註:
この項は”Vera-Ellen: The Magic and the Mystery”(David Sorenら 著 Luminary Press 2003年)を基に書いたものです。
その1、7、11では、引用以外は私の考えを述べ、2-6および8-10は、主に本の内容を要約、編集したものです。
一部、事実の認定に疑問のある部分もありますが(アステア映画の初の赤字がBelle of New Yorkかなど)、本の内容のままとしました
通知 ― 2007年11月16日 01時06分23秒
二ヶ月ほどお休みさせていただきます。
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