ヴェラ=エレン その10「不幸」2007年11月15日 00時23分06秒


1962年、やせた彼女と夫ヴィクター(中央)



 1963年3月3日、42歳になったヴェラ=エレンは女の赤ちゃんを出産します。名前はヴィクトリア エレン。結婚9年目にして授かった子供に彼女はたいへんな愛情を注ぎます。
 ところが三ヶ月後赤ん坊は急死。原因不明の突然死です。死亡時、夫も彼女も家におらず、母のアルマが一人で面倒をみていました。そのため、「母親が殺した」とか、さらには「そういった噂を夫のヴィクターが流した」などの風評が立ったほどです。

 彼女の嘆きは一通りではありませんでした。不安定な精神状態から、一時うつ病にもなったようです。彼女は生涯赤ん坊の死を受容できず、子ども部屋も、衣類やオムツにさえも手をつけず、死んだときのままに保存します。

 子どもの死は、もともとギクシャクしていた夫婦関係に決定的な影響を与えることになります。死にこだわり続ける彼女と無関心な夫の関係は冷え込み、ついに離婚に至るのです。
 1966年9月、夫から出された離婚訴訟に対し、精神的に疲れ果てていた彼女は闘い続ける気力もありませんでした。住み慣れた家は勝ち取ったものの、他に大した財産もなく、元からの貯えと、月々の慰謝料、不動産からのわずかな収入だけで食べていかねばならなくなります。

 二度目の離婚は肉体的にも大きな痛手となります。拒食症も影響し体力が衰え、年の割りに一層老けて見えるようになります。テレビ出演や雑誌の取材依頼を断わり続けたのも、外見に自信がなく、かつての映画のイメージを壊したくないという理由からです。さらに関節炎、高血圧が悪化。プロのダンサーとしての活動が困難になったばかりか、一時、歩行にさえ支障をきたします。

 この時期以降、彼女はマスコミを避け、自分自身の生活スタイルを頑固に守り続けます。ダンススタジオでの稽古を毎日の日課に、他の時間は自宅で、いまだに来るファンレターへの返事書きなどに時間を費やします。服はたくさんあっても、決まった五、六着を着続け、付き合うのは少数の友人や親戚、故郷の人々とだけ。MGMに関係した人々との交流はまったくありませんでした。
 

 1974年、「十番街の殺人」がはいるはずだった「ザッツ・エンタテインメント」に彼女の映像はなく、プレミア試写会も欠席します。続く「ザッツ・エンタテインメントII」にも出演映像がなく、彼女は深く傷つくことになります。

 1970年代後半、自宅に数回泥棒が入った事から、周囲への猜疑心が強まります。女の一人暮らしと知られ高額な修繕費を要求されることを心配し、雨漏りがしても鍋やポットを置いてしのぎます。
 警備員を雇ったり防犯システムをつける余裕もありません。庭やプールの整備にもお金がかかりますが、スターの体面を保つため、家も売ろうとしませんでした。そんななか、1980年2月、陰に陽にヴェラ=エレンを支えながらスターへの道を共に歩んできた母のアルマが介護施設で亡くなります

 1981年、アステアに対しAFIより生涯功労賞が送られます。しかし、表彰式に招待された彼女が出席を断ると、その「報復」に記念の映像から彼女とアステアのダンスシーンが削除され、再び彼女の心は傷つきます。 この頃には、一層やせてレオタードとタイツのたるみがわかるほどだったそうですが、それでもダンスのレッスンは欠かしませんでした。

 その年の8月、首の付け根の腫瘤をがんの転移と診断された彼女は、手術を避け、尊厳を守って人生を終える道を選びます。8月21日、新聞が外に貯まっていることに気づいた隣人が家にはいると、骨と皮だけのような彼女がベッドルームから出てきます。宗教的理由から医療を拒む彼女に、数日間隣人が食事を運びますが、このときでさえ「甘いものはダイエットに良くない」と言って食べなかったといいます。

 その後友人らに説得されついに入院したヴェラ=エレンは、数日間の半昏睡状態の後、1981年8月30日に亡くなります。

享年60でした。