ヴェラ=エレン その4「肉体改造」2007年10月03日 00時38分21秒

17歳

17歳の彼女



 ツアー終了後ニューヨークにもどったヴェラ=エレンは、母親とアパ-トを借り、ダンスの勉強を続けます。才能を信じた母親は、授業料のため秘書として働きながら彼女を支えていきます。
 この時期、彼女は多くの舞台のオーディションを受けますが、合格することはありませんでした。主な理由はその体格にあります。実はそれまでの二年間で、彼女の身長の伸びは1インチにも満たず、16歳でありながら、身長137cm、体重34kgにすぎなかったのです。
 どれほど踊りがうまくても、これでは役を手に入れることはできません。

 あるプロデューサーはオーディション終了後にこう言ったそうです。

「君のダンスもセリフ回しもすばらしい。だが他の女の子の隣に立ってごらん。小人に見えちゃうよ。・・・・・・・・すまんね。」

 ここから彼女の努力が始まります。なんと自分で身長を伸ばそうと決意し、それを実行に移したのです。
 ダンスの経験を生かして編み出した方法は、戸口にぶら下がることから、ハイキックや床の上でのストレッチなど様々ですが、これらの動作を毎日三十分間実行した上に、お祈りも欠かしませんでした。
 果たしてそのかいがあったのか、21歳の時には身長が164cmにまで伸びています。

 ここまで大きくなれた理由が本当に彼女の努力や祈りのせいなのか、或は単に成長期が遅く始まっただけなのかはわかりません。しかし、自分の意思で肉体を変えられるという確信は、母親の行った食事法やダイエットともあいまって、その後の彼女に大きな影響を与えることになるのです。

 
 18歳になり体も成長した彼女は、ダンスにも自信を深めていきます。そこで、当時ブロードウェイの有名なナイトクラブ”Casa Manana”をとりしきるビリー・ローズの「ライン・ガールズ」のオーディションに応募。大胆にもコーラスガールを拒否し、一人で踊るスペシャルティ・ダンサーを希望したばかりか、その座を射止めることになります。
 Casa Mananaの舞踊監督はロバート・オルトン。後に映画界でも彼女の主要な作品の振付を担当することになります。

 ナイトクラブやレストランのショーで経験をつんだヴェラ=エレンは、再びブロードウェイのオーディションに挑戦。その結果、1939年にジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン二世の”Very Warm for May”、1940年にはリチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの”Higher and Higher”にそれぞれ役を得ますが、残念ながらいずれも公演は短期間で終了してしまいます。
 しかしロバート・オルトンの世話で、その年の10月、エセル・マーマン主演”Panama Hattie”にリード・ダンサーとして参加することになります。

 初めてのロングランとなる作品です。

ヴェラ=エレン その3「バニー」2007年10月01日 00時27分33秒


10歳の彼女、あだ名は「バニー」
人を惹きつける愛らしさは天賦のものです。

 
 ダンスの勉強を始めたヴェラ=エレンはたちまち頭角を現し、十代の初めにはすでにスタジオの講師を務めるまでになります。ダンスだけに限らず、学校の勉強でもすべての科目に優秀な成績をあげ、また応援バンドのリーダーを務めるなど常に皆の注目を集める存在でした。
 またこの頃からスターになるという目標をもっていたようです。

 彼女が多くのことに秀でていた理由の一つは、後に自ら「始めたことはなんでも完璧にこなしたいという欲望の犠牲者」と公言するほどの完全主義です。
 彼女の常に絶やさぬ笑顔や、人に優しく思いやりのある性格は父親から受け継いだようですが、この完璧主義はどうも母親からのようです。

 母親のアルマは「いつかひとかどの事を成し遂げてみたい」という強い意志を持った人でした。
 何ごとにも几帳面でしたが、なかでも食事療法には熱中し、ヴェラ=エレンのダンサーとしての体形を作るために当時提唱されていた食事法を施します。これは塩、パン、パスタ、シリアルにレモンやグレープフルーツなどを避けるという、現在の栄養学の観点から見れば誤ったものだったようですが、こんなことも影響したのか、一時学校で「彼女が小さいのは母親がピンクのバナナを食べさせてわざと大きくならないようにしているからだ」という噂が流れたそうです。

 こんな母親にとって、才能に溢れ人を惹きつけずにおかない娘は、自分の願望を成し遂げるための大切な対象であったと思われます。娘への期待がますます大きくなるとともに、仕事も少なくこれといった目標も持たない夫に対する失望が明らかになっていきます。

 1936年、スタジオの勧めでニューヨークで開かれたダンス教師のための講習会に出席したヴェラ=エレンはその感激が忘れられず、二ヵ月後に父を説得し、母親と二人再びニューヨークへ向かいます。そこで当時有名だったラジオ番組「ボウズ少佐のアマチュア・アワー」に出演し認められると、翌’37年1月に再び同ショーに出演。そこからボウズ少佐の”All Girl Unit”に参加し全米を巡演することになります。

プロの世界が目の前にあります。




 
 ダンス・スタジオ時代、熱心な彼女は近くに住む同年代の子供たちをダンスのレッスンに誘いスタジオに通わせます。そのうちの一人に、近くの町に住むドリス・カペルホフという女の子がいました。

 後のドリス・デイです。

ヴェラ=エレン その2 「ちっちゃい」2007年09月29日 00時53分55秒

1934年

左端がヴェラ=エレン。
これで13歳?!!

「ダンスが上手かったから好きになったのか、好きだから上手くなったのか、よくわからないのよ。たぶん両方かもね。」


Vera Ellen Westmeier Rohe(ヴェラ エレン・ウエストマイアー・ローと発音するらしい。本名にハイフンはない)は1921年2月、オハイオ州シンシナティ近郊のノーウッドに、父マーチン、母アルマの一人娘として生まれます。ノーウッドは元来ドイツからの移民が集まった地域で、彼女の両親も共にドイツ移民の子孫です。
近隣で話される言葉もドイツなまりが強く、後に彼女自身「アメリカにいながら外国生まれのような気分だった」と語っています。双方の家系ともに裕福ではありませんが、父のマーチンはピアノ調律師の仕事をまじめに務め、笑顔を絶やさぬ人でした。

母親の家系の遺伝なのか、ヴェラ=エレンは 幼少期から非常に小柄で、小学校では「同級生より頭一つ小さい」と言われるほどの体格だったようです。さらに、内気で本に埋もれるのを好む性格だったため、心配した両親は、彼女が9歳のときに二つのことを勧めます。ヤギのミルクを飲むこととダンスのレッスンでした。

 「私は本の虫って言われてたの。母がシンシナティのダンスの先生の処へ連れてってくれたのは9歳の時ね。あんまり立ち振る舞いが不器用だったから、父も母も私がもっと洗練されてほしかったんでしょう。
 行ってみてわかったのは、私はダンスが好きだし、みんなも私を観るのが好きみたいだってことね。それで通ってみることに決めたの。」

 彼女の通ったのはElenor and Harry H. Hessler's Mount Adams Dance Studioという長い名前のダンススタジオ。丁度大恐慌のさなか、贅沢品のピアノの調律が減ってお金のなかった父親は、調律を無料で引き受ける代わりに、スタジオの月謝を免除してもらったそうです。

ヴェラ=エレン その1「別人」2007年09月25日 00時12分36秒

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「ダニー・ケイの牛乳屋」(1946)の宣伝写真。
MGM時代の彼女とは別人のようです。


 ヴェラ=エレンのダンスを観ていて、私の頭に思い浮かぶイメージは「下位に取りこぼしの少ない大関」です。
 それなりの実力を持っていて欠点というほどものもないが、観客の心に強く迫るだけの何かが技術や身体能力も含めて決定的に不足している。丁度、「いつも十勝前後を挙げ、取り口は正攻法。下位の力士には強いが横綱と当たると負けてしまう大関クラスの実力」が彼女の踊りを評価するのに最適だというのが私の考えです。

 その「隣のお姉さん」的な愛らしさも含め、タップからモダン、ジャズ、ボールルームダンスと幅広いレパートリーをそつなく、一定以上のレベルで踊る実力は評価しなくてはいけないのでしょうが、あまりそつがなさ過ぎると書きようがないし、まして書こうという意欲が湧いてきませんでした。
 
 ところが彼女について調べているうちに気が変わります。
 彼女についての信頼できる詳しい資料は今のところ”Vera-Ellen: The Magic and the Mystery”(David Sorenら 著 2003年) しかない(ネット上の略歴もこれを参考にして書かれたものがほとんど)ようですが、これを読んでいて、彼女の人生の方が自身のダンスについて書くよりずっと面白いと気づいたのです。もちろんそれはフィルムの上に映し出されるヴェラ=エレン自身のダンスとも無縁ではありません。

というわけで、今回は上掲書を参考にしながら彼女の人生を辿ってみたいと思います。

 追々、これまでに出した彼女の写真がMGM以降とは別人のように見える理由も、名前に挿入された「ハイフンの謎」も明らかになるでしょう。

予告編 「誰?」2007年09月23日 23時25分22秒


近日公開 (・・・・・・・・たぶん)

ジーン・ケリー おまけ その5「消失」2007年08月28日 23時39分48秒

what a way to go

二十世紀フォックス作品「何という行き方!」(1964)より。
左はシャーリー・マクレーン

突然ですが二十一年後です。

 結婚する度に夫が早死にし、かわりに遺産だけはますます増えていくという「不幸な」若妻をシャーリー・マクレーンが演じるコメディー。ケリーはその四番目の夫。
  田舎町のナイトクラブのしがない芸人ケリーが、ふとしたきっかけから人気を得てハリウッドスターにまで上り詰めますが、最後は不幸な結末が・・・・・。

 上のナンバーはまだ人気が出る前、貧しいながらも幸せな結婚生活を送る二人の空想シーン。「私たちの結婚生活はハリウッドのミュージカル映画のようだった」というマクレーンのナレーションから始まるように、設定からしてすでにハリウッド・ミュージカルのパロディになっています。
 しかし、寂しいことにケリー自身の肉体が衰え、観客の期待を担いきれません。締まってはいるが筋肉が落ちた腕や太股。その体からは全盛期の「モールド感」が消え失せています。うねるような筋肉の連動はなくなり、ルーチンの動きに合わせバラバラな手足を動かしているにすぎません。観客を魅了した愉悦は消え、あるのはケリーの抜け殻、凡庸なダンサーの肉体です。意図するしないにかかわらず、ケリー自身が自分のパロディを演じるはめになっています。

  もちろん、ここで五十歳を過ぎたケリーをこきおろしたところで何になるものでもありません。年齢のために踊れなくなることはダンサーの宿命。踊るための豊かな筋肉という武器を失ったダンサーに罵声を浴びせることはむごいことです。しかし脚本をコムデン=グリーン、振り付けがケリー自身であることを合わせて考えると、ハリウッドにとってもケリー自身にとっても大切な時間が過ぎ去ったことの感慨は観る者にとってひとしおとなるのです。

 映画撮影の技術、スタジオシステム、時代背景、さまざまな分野の有能なスタッフ・・・・この偶然が作り上げたわずか二十数年のミュージカル映画黄金期にダンサーとして己の身体の盛期を少しでも重ねることのできる幸運。
 ここに考えをめぐらせると、ケリーにとっての失われた十年の問いは、もしかしたら意味をなさない問いだったのかもしれません。

[この項終わり]

ジーン・ケリー おまけ その4 「ご苦労さん」2007年08月27日 23時47分38秒

do i love you3

 ちょっと横道に。

このナンバーの後半、曲がアップテンポになるなか軽快に踊るケリーは、写真のように腕立て伏せの格好で舞台を右から左へ移動。約二十人の女性が順に彼を飛び越えていきます。

 簡単そうにやっていますが、実際の撮影を考えると実はこれ大変なことではないかと思うのです。

 ワンショットで撮影しているので、順番に飛び越えていく女性のタイミングが狂うとまた一からやり直し。横に移動していくケリーは何度も往復するはめになり、体力的にも大変です。
 まあ、ご苦労さんとしか言いようがありません。