はじめに ― 2006年10月10日 12時40分00秒
これから、私の好きなスタジオシステム全盛時代のハリウッドミュージカルを中心に気づいたこと、考えたことを書いていきたいと思います。ですから、だいたいは1930年代から50年代の作品ということになります。もちろん最近のミュージカル映画についても書くことはあるでしょうが、好みからどうしても古典的ミュージカル映画とそこに登場するダンサーに偏らざるをえない。
まず断っておかなければなりませんが、私はいわゆるミュージカル好きとかミュージカル通ではありません。もちろん、こんなものを書いているわけですから嫌いというわけではないが、ミュージカルがなければ夜も日も明けないということはない。ブロードウェイ・ミュージカルについては大した知識もありません。それからミュージカル映画も本当に好きかと聞かれると自信がない。というより本当はそんなに好きでもないんじゃないかと思っています。
じゃ何が好きなんだということになりますが、これははっきり言える。ダンサーや踊り手、そしてその人たちの行為するところのダンス、踊り、舞踊。これらについては本当に好きだと言える。
つまりここで書くことは、ミュージカル映画そのものでなく、踊りというフィルターを通してみた映画ミュージカルです。
そしてもう一つ。踊り手とその踊りがよって立つ体の仕組みをできるだけ考えていくということです。
うまい踊り手はどうしてうまいのか。下手な人はどうして下手なのか。このダンサーはどうしてこういう雰囲気を醸し出すのか。この人とあの人ではどっちが上手いのか。
そういうことが考えていけたら良いと、とりあえず思っています。
まず断っておかなければなりませんが、私はいわゆるミュージカル好きとかミュージカル通ではありません。もちろん、こんなものを書いているわけですから嫌いというわけではないが、ミュージカルがなければ夜も日も明けないということはない。ブロードウェイ・ミュージカルについては大した知識もありません。それからミュージカル映画も本当に好きかと聞かれると自信がない。というより本当はそんなに好きでもないんじゃないかと思っています。
じゃ何が好きなんだということになりますが、これははっきり言える。ダンサーや踊り手、そしてその人たちの行為するところのダンス、踊り、舞踊。これらについては本当に好きだと言える。
つまりここで書くことは、ミュージカル映画そのものでなく、踊りというフィルターを通してみた映画ミュージカルです。
そしてもう一つ。踊り手とその踊りがよって立つ体の仕組みをできるだけ考えていくということです。
うまい踊り手はどうしてうまいのか。下手な人はどうして下手なのか。このダンサーはどうしてこういう雰囲気を醸し出すのか。この人とあの人ではどっちが上手いのか。
そういうことが考えていけたら良いと、とりあえず思っています。
はじめに その2 ― 2006年10月11日 01時28分07秒
ハリウッド黄金期ののミュージカル映画というと、どうしてもフレッド・アステアとジーン・ケリー、そして二人が同時期に活躍したMGMの作品に話題が集中してしまいます。あまりに当たり前すぎておもしろ味に欠けますが、まあこれは仕方がないでしょう。この二人には技術の裏付けと天性の華がそなわっていて、見ているものをあきさせない。ビデオやDVDで何度見返してもあきるということがありません。
監督も振り付けも美術も音楽も、すべて超一流をそろえてミュージカルを量産できるという映画史上の幸福な時期にこの二人が居合わせたことは、観ている者もそして当人たちも神に感謝しなければなりません。
この二人についてもいずれ書きたいと思っていますが、さていつになることでしょう。
もう一つ、ついでに断っておきますが、私は踊りに関してまったくの素人です。自分で踊ったこともなければ、勉強したこともありません。つまり技術的なこともさっぱり解からなければ、知識もない。それでは、偉そうなことを言っておいて、どんな風ににダンサーとその踊りについて書くのか。
人間の体にはその人に特有な動きを生み出す構造と機能が備わっています。その結果なんらかの動作を行ったとき、その人独自の、その人にしかできない表現が現れてきます。踊りやダンスに限らず、スポーツや武道など身体で表現する分野は皆そうです。とくに優れた人ではこの特徴が顕著に現れ、他の人と区別しやすいのですが、反面、構造が複雑で分析しにくいのも事実です。
DVDやビデオを見ながら、この構造と機能をなんとか見取っていかに言葉に置き換えていくか。それが私のミュージカル映画の観方であり、ダンサーに対する愛情表現だと思っています。
監督も振り付けも美術も音楽も、すべて超一流をそろえてミュージカルを量産できるという映画史上の幸福な時期にこの二人が居合わせたことは、観ている者もそして当人たちも神に感謝しなければなりません。
この二人についてもいずれ書きたいと思っていますが、さていつになることでしょう。
もう一つ、ついでに断っておきますが、私は踊りに関してまったくの素人です。自分で踊ったこともなければ、勉強したこともありません。つまり技術的なこともさっぱり解からなければ、知識もない。それでは、偉そうなことを言っておいて、どんな風ににダンサーとその踊りについて書くのか。
人間の体にはその人に特有な動きを生み出す構造と機能が備わっています。その結果なんらかの動作を行ったとき、その人独自の、その人にしかできない表現が現れてきます。踊りやダンスに限らず、スポーツや武道など身体で表現する分野は皆そうです。とくに優れた人ではこの特徴が顕著に現れ、他の人と区別しやすいのですが、反面、構造が複雑で分析しにくいのも事実です。
DVDやビデオを見ながら、この構造と機能をなんとか見取っていかに言葉に置き換えていくか。それが私のミュージカル映画の観方であり、ダンサーに対する愛情表現だと思っています。
はじめに その3 ― 2006年10月11日 18時50分00秒
Amazon.comをながめていると、アメリカでは映画に関する本が非常にたくさん出版されているのがわかります。スターの伝記もミュージカル関係の書籍も。
私がもっと英語ができたらそういった本や雑誌の記事をたくさん読むことができるだろうし、時間と金があればアメリカのフィルムセンターやアーカイヴスで珍しい資料やフィルムを研究することもできるでしょう。でも、仕事をもって普通に日本で暮らしている者にはそんなことは夢のまた夢です。
私のミュージカル映画についての知識は、ごく一般的に手に入る書物やホームページからの二次的、孫引きの情報です。これは普通の暮らしをしている日本人にとってどうしようもない。べつにネイティヴの研究者と張り合うつもりはないし、そんな必要もないけれど、それでもやはり何か自分らしい特別なものがほしい。
ところが一つあります。平等に与えられたものが。それはDVDやビデオに映し出された映像そのものです。
この映像だけは、英語ができようができまいが、研究者だろうが素人のおじさんだろうが、誰の前にも平等に同じ情報量をもって存在している。
この映像--ダンサーの動きから何を読み取るか。これが不勉強な私に残された、自分なりにできるたった一つのミュージカル映画とのつき合い方なのです。
私がもっと英語ができたらそういった本や雑誌の記事をたくさん読むことができるだろうし、時間と金があればアメリカのフィルムセンターやアーカイヴスで珍しい資料やフィルムを研究することもできるでしょう。でも、仕事をもって普通に日本で暮らしている者にはそんなことは夢のまた夢です。
私のミュージカル映画についての知識は、ごく一般的に手に入る書物やホームページからの二次的、孫引きの情報です。これは普通の暮らしをしている日本人にとってどうしようもない。べつにネイティヴの研究者と張り合うつもりはないし、そんな必要もないけれど、それでもやはり何か自分らしい特別なものがほしい。
ところが一つあります。平等に与えられたものが。それはDVDやビデオに映し出された映像そのものです。
この映像だけは、英語ができようができまいが、研究者だろうが素人のおじさんだろうが、誰の前にも平等に同じ情報量をもって存在している。
この映像--ダンサーの動きから何を読み取るか。これが不勉強な私に残された、自分なりにできるたった一つのミュージカル映画とのつき合い方なのです。
悪口が聞きたい ― 2006年10月15日 02時52分24秒
D.O. ボブ・フォッシーとトミー・ロール。 今生きてるダンサーの中じゃ最高だと思うけどね。
M. A. アステアよりも上?
D.O. そう。それからケリーよりもね。 あのね、人間的魅力という点では誰もフレッド・アステアにはかなわない。比べようのない存在だ。でも彼のすることはトミーにもフォッシーにもできるよ。少なくとも、すごく魅力的にまねして見せることができる。今話してるのは、何でもできる、総合的な能力のあるダンサーのことなんだ。彼らは偉大な振付家でもあるしね。
D.O.はドナルド・オコナー。1979年のインタビューであるから、アステアもケリーもまだ「今生きてる」。
もっと詳しく聞いてみたいところだが話題は別のところに移り、これ以上の言及はない。だが、少なくとも業界の内側から見ていたオコナーは、スター性は別として、ダンサーとしての能力はアステア、ケリーよりボブ・フォッシーやトミー・ロールの方が優れているとしている。
当たり前の話だが、表に表れる映像に残ったものの中で、あからさまに他人を批判する言辞にめぐり合うことは稀である。DVDのおまけのメイキング物のインタビューは、互いの褒めあいに終始する。そこからは人物の陰影も互いの能力の距離感も見えてこない。
わずかに批判らしいのは、数年前に教育テレビで放送されたドキュメンタリーの中での、フェヤード・ニコラス(ニコラスブラザースの兄の方)の語った逸話。
踊る海賊の中の「Be a Clown」の振り付けで、ジーン・ケリーがいろいろ指導しているのに弟のハロルドがちっとも聞いていない。ケリーがそんなことでちゃんとできるのかと怒るのを尻目に一発でうまく踊って見せたものだから、ケリーは真っ赤な顔をしたままそれ以上何も言えなくなった。
フェヤードは"Anatomy of a Dancer" のなかでも、ケリーの踊りが力の入った男性的なものであるのに対し、自分たちの踊りには品がある(style and class と言っていたと思う)と、暗に自分たちの方が優れていると言わんばかりに語っている。
「人間にはうぬぼれというものがある。だから相手の方が自分より少し下手かと思うなら実は同じくらい。同じかと思うなら相手の方が上。少し上かなと思うなら相当の開きがある。
だから気をつけなくちゃいけない」
昔から芸事や武道の世界で言われていることである。出典は忘れた。それに倣えば他人への批判は翻って当人を映し出し、二人の距離感をあぶりだす。
私はダンサー同士の批判や悪口をもっと聞きたいのだ。
ついでに。
ドナルド・オコナーの意見に私は与しません。その理由は、おいおい書いていくことになるでしょう。
M. A. アステアよりも上?
D.O. そう。それからケリーよりもね。 あのね、人間的魅力という点では誰もフレッド・アステアにはかなわない。比べようのない存在だ。でも彼のすることはトミーにもフォッシーにもできるよ。少なくとも、すごく魅力的にまねして見せることができる。今話してるのは、何でもできる、総合的な能力のあるダンサーのことなんだ。彼らは偉大な振付家でもあるしね。
D.O.はドナルド・オコナー。1979年のインタビューであるから、アステアもケリーもまだ「今生きてる」。
もっと詳しく聞いてみたいところだが話題は別のところに移り、これ以上の言及はない。だが、少なくとも業界の内側から見ていたオコナーは、スター性は別として、ダンサーとしての能力はアステア、ケリーよりボブ・フォッシーやトミー・ロールの方が優れているとしている。
当たり前の話だが、表に表れる映像に残ったものの中で、あからさまに他人を批判する言辞にめぐり合うことは稀である。DVDのおまけのメイキング物のインタビューは、互いの褒めあいに終始する。そこからは人物の陰影も互いの能力の距離感も見えてこない。
わずかに批判らしいのは、数年前に教育テレビで放送されたドキュメンタリーの中での、フェヤード・ニコラス(ニコラスブラザースの兄の方)の語った逸話。
踊る海賊の中の「Be a Clown」の振り付けで、ジーン・ケリーがいろいろ指導しているのに弟のハロルドがちっとも聞いていない。ケリーがそんなことでちゃんとできるのかと怒るのを尻目に一発でうまく踊って見せたものだから、ケリーは真っ赤な顔をしたままそれ以上何も言えなくなった。
フェヤードは"Anatomy of a Dancer" のなかでも、ケリーの踊りが力の入った男性的なものであるのに対し、自分たちの踊りには品がある(style and class と言っていたと思う)と、暗に自分たちの方が優れていると言わんばかりに語っている。
「人間にはうぬぼれというものがある。だから相手の方が自分より少し下手かと思うなら実は同じくらい。同じかと思うなら相手の方が上。少し上かなと思うなら相当の開きがある。
だから気をつけなくちゃいけない」
昔から芸事や武道の世界で言われていることである。出典は忘れた。それに倣えば他人への批判は翻って当人を映し出し、二人の距離感をあぶりだす。
私はダンサー同士の批判や悪口をもっと聞きたいのだ。
ついでに。
ドナルド・オコナーの意見に私は与しません。その理由は、おいおい書いていくことになるでしょう。
ギエムから考える ― 2006年10月17日 01時33分53秒
考えることには枠がある。枠の中では妥当と思われることも、枠を取り去ってみると必ずしもそうとは限らない。
ミュージカル映画のダンスをシルヴィ・ギエムから考えてみるのも悪くはない。何かが見えてくる。
8月9日、世界バレーフェスティバルのBプログラムでシルヴィ・ギエムを見た。演目は「椿姫」第三幕のパ・ド・ドゥ。相手はニコラ・ル・リッシュ。同じ椿姫の第二幕のパ・ド・ドゥをパリ・オペラ座のオレリー・デュボンがマニュエル・ルグリと三つ前に踊っている。
パリの社交界で椿姫と呼ばれた高級娼婦のマルグリットは若いアルマンと出会い恋に落ちるが、別れなければならない。第二幕のパ・ド・ドゥは恋に落ちた二人が過ごす至福の時を描き、第三幕は死を予感したマルグリットがアルマンを訪ねる場面。自ら身を引いたマルグリットを誤解し、彼女の友人の気を引いて復讐しようとするアルマンに対し、自分を苦しめる振る舞いはやめてほしいと懇願する場面である。
喪服のような黒い衣装に身をつつみ、ベールを被って登場するとき、ギエムはすでにギエムであってギエムではない。悲しみとともにいまだ暗く燃え続ける恋の情念を内に秘めた身体がそこにある。会ってはいけない相手との交わさずにはいられない愛情が、葛藤の形を借りバレーの身体として表現されるが、そればかりではない。ギエムの思いが生の情念として直に私に感じられ、激しく気持ちを揺さぶってきたのだ。
同時に不思議な感覚につつまれた。踊り手として行う様々なバレーの動きがすべて邪魔なものに感じられたのである。
「そんな余計なことをせず、このままマルグリットの情念だけを伝え続けてくれればいい」。
自然に涙があふれた。終わった後もこの踊りのことばかり考え続けたせいか、その後の一時間に出演した踊り手たちの印象はほとんどない。
誤解を承知で言えば、ギエム以外のダンサーはうまい踊りを踊っているにすぎない。あのときのギエムにはすでに踊りもテクニックも必要ではなかった。ただ佇んでいればよい。それほどの境地に達していた。
だが、それが可能であったのは、同時に、彼女の身体とテクニックがある高みにまで極まっていたからであることも忘れてはならない。
ミュージカル映画のダンスをシルヴィ・ギエムから考えてみるのも悪くはない。何かが見えてくる。
8月9日、世界バレーフェスティバルのBプログラムでシルヴィ・ギエムを見た。演目は「椿姫」第三幕のパ・ド・ドゥ。相手はニコラ・ル・リッシュ。同じ椿姫の第二幕のパ・ド・ドゥをパリ・オペラ座のオレリー・デュボンがマニュエル・ルグリと三つ前に踊っている。
パリの社交界で椿姫と呼ばれた高級娼婦のマルグリットは若いアルマンと出会い恋に落ちるが、別れなければならない。第二幕のパ・ド・ドゥは恋に落ちた二人が過ごす至福の時を描き、第三幕は死を予感したマルグリットがアルマンを訪ねる場面。自ら身を引いたマルグリットを誤解し、彼女の友人の気を引いて復讐しようとするアルマンに対し、自分を苦しめる振る舞いはやめてほしいと懇願する場面である。
喪服のような黒い衣装に身をつつみ、ベールを被って登場するとき、ギエムはすでにギエムであってギエムではない。悲しみとともにいまだ暗く燃え続ける恋の情念を内に秘めた身体がそこにある。会ってはいけない相手との交わさずにはいられない愛情が、葛藤の形を借りバレーの身体として表現されるが、そればかりではない。ギエムの思いが生の情念として直に私に感じられ、激しく気持ちを揺さぶってきたのだ。
同時に不思議な感覚につつまれた。踊り手として行う様々なバレーの動きがすべて邪魔なものに感じられたのである。
「そんな余計なことをせず、このままマルグリットの情念だけを伝え続けてくれればいい」。
自然に涙があふれた。終わった後もこの踊りのことばかり考え続けたせいか、その後の一時間に出演した踊り手たちの印象はほとんどない。
誤解を承知で言えば、ギエム以外のダンサーはうまい踊りを踊っているにすぎない。あのときのギエムにはすでに踊りもテクニックも必要ではなかった。ただ佇んでいればよい。それほどの境地に達していた。
だが、それが可能であったのは、同時に、彼女の身体とテクニックがある高みにまで極まっていたからであることも忘れてはならない。
ギエムから考える その2 ― 2006年10月20日 01時16分40秒
クラシックバレーの裾野は広く、高いレベルの身体運動の宝庫である。中でも、世紀を代表するパレリーナの一人と目されるギエムの境地は、極まった身体の極北と言ってよい。そのギエムを一方の原型にすえミュージカル映画の踊りを考えてみることは、ショーダンスの枠を超え、踊り手を対象化して考える上で有用ではないだろうか。
ダンスを評価する場合、表面上まず目につくのはダンサーの身体能力やテクニック、そのダンサー独特の雰囲気といったところだろう。
ギエムの場合のように「演じた役の感情を直に観客に感じさせる能力」も重要ではあるが、現実の問題として、生半なことでできるものではない。くわえて、この能力は身体能力や技術に支えられながらも、ある時点でそれとは独立して存在するという逆説的な構造をかかえている。
ここでクラシックバレーとミュージカルの踊りの違いを考えてみたい。それは、一般に考えられるような表面上の技術や体の使い方、題材と内容の違いではなく、しばしば見落とされがちな基本的構造----つまり、体とテクニックが観客に与える基底的な感情とそれに対する観客の暗黙の要求の問題である。
良く訓練された身体とテクニックの隙のなさはある意味で観客を直感的に緊張させる。その緊張を緊張として観客が受け入れるところから出発しているのがクラシックバレーやモダンダンスなど、いわゆる「芸術」といわれる分野である。
他方、ミュージカルなど娯楽色の強い分野で観客が求めるものは、まず精神の弛緩や安らぎであり、踊りもそれを満足させる方向で作られることが多い (近年この境界は曖昧になっているが、ミュージカルコメディーの伝統が根強い1950年代までの映画の踊りはこう云ってもさしつかえないのではないか)。
つまり踊りのジャンルとは、踊り手が観客に与える根源的印象と観客の暗黙の要求との共犯的作業に支えられている。
変な喩えで恐縮だが、陸上の100m走に喩えれば、ひたすら速く走るさまと、そのための鍛え上げた肉体を観客に提示するのがクラシックバレーであり、観客をそれを受け入れる。 他方、ミュージカル映画のダンスの場合、100m走の形態はとるが、見る者も出走者も速く走ることに価値をおいていない。ここで重要視されるのは、走る姿かもしれないし、皆で走れる喜びかもしれない。
この踊り手と観客との共同作業の中で、踊りの形態も技術やテクニックも内容も独自に形成され発展し、分野が生まれる。
ミュージカルの踊りの難しさは、本来弛緩と安らぎを求めるジャンルにおいて、訓練を行き届かせれば緊張をはらんでしまう身体能力やテクニックを矛盾なくどう溶け込ませて行けるかというパラドックスに潜んでいると思われる。
ダンスを評価する場合、表面上まず目につくのはダンサーの身体能力やテクニック、そのダンサー独特の雰囲気といったところだろう。
ギエムの場合のように「演じた役の感情を直に観客に感じさせる能力」も重要ではあるが、現実の問題として、生半なことでできるものではない。くわえて、この能力は身体能力や技術に支えられながらも、ある時点でそれとは独立して存在するという逆説的な構造をかかえている。
ここでクラシックバレーとミュージカルの踊りの違いを考えてみたい。それは、一般に考えられるような表面上の技術や体の使い方、題材と内容の違いではなく、しばしば見落とされがちな基本的構造----つまり、体とテクニックが観客に与える基底的な感情とそれに対する観客の暗黙の要求の問題である。
良く訓練された身体とテクニックの隙のなさはある意味で観客を直感的に緊張させる。その緊張を緊張として観客が受け入れるところから出発しているのがクラシックバレーやモダンダンスなど、いわゆる「芸術」といわれる分野である。
他方、ミュージカルなど娯楽色の強い分野で観客が求めるものは、まず精神の弛緩や安らぎであり、踊りもそれを満足させる方向で作られることが多い (近年この境界は曖昧になっているが、ミュージカルコメディーの伝統が根強い1950年代までの映画の踊りはこう云ってもさしつかえないのではないか)。
つまり踊りのジャンルとは、踊り手が観客に与える根源的印象と観客の暗黙の要求との共犯的作業に支えられている。
変な喩えで恐縮だが、陸上の100m走に喩えれば、ひたすら速く走るさまと、そのための鍛え上げた肉体を観客に提示するのがクラシックバレーであり、観客をそれを受け入れる。 他方、ミュージカル映画のダンスの場合、100m走の形態はとるが、見る者も出走者も速く走ることに価値をおいていない。ここで重要視されるのは、走る姿かもしれないし、皆で走れる喜びかもしれない。
この踊り手と観客との共同作業の中で、踊りの形態も技術やテクニックも内容も独自に形成され発展し、分野が生まれる。
ミュージカルの踊りの難しさは、本来弛緩と安らぎを求めるジャンルにおいて、訓練を行き届かせれば緊張をはらんでしまう身体能力やテクニックを矛盾なくどう溶け込ませて行けるかというパラドックスに潜んでいると思われる。
ギエムから考える その3 ― 2006年10月20日 01時21分12秒
と、いろいろ小難しいことを書いているが、いったい何を云いたいのか。
要するに、
「ミュージカルの踊りでいくら技術やテクニック、身体能力が優れているからといって、バレーの踊り手を越えられるのか。越えているのか。そんなことよりミュージカルにはミュージカル独自の踊りの価値があり、それを追及することに意味があるのではないか。大切なのではないか。」
ということである。
ドナルド・オコナーの意見に与しない理由がこれである。具体例はいずれまた。
要するに、
「ミュージカルの踊りでいくら技術やテクニック、身体能力が優れているからといって、バレーの踊り手を越えられるのか。越えているのか。そんなことよりミュージカルにはミュージカル独自の踊りの価値があり、それを追及することに意味があるのではないか。大切なのではないか。」
ということである。
ドナルド・オコナーの意見に与しない理由がこれである。具体例はいずれまた。
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