ヴェラ=エレン その6「ゴールドウィン」2007年10月10日 00時10分20秒


24歳の彼女。
ウーーーーン・・・・可愛い。




 母と共にロサンゼルスへ移ったヴェラ=エレンは、アパートでの生活を始めます。ハリウッドデビューにあたり十代である方が評判を呼ぶと考えた母親は、彼女の年齢を実際より5歳若く公表します。実のところ、童顔の彼女は十代と言われてもおかしくない外見だったのです。

 しかし映画界でのゴールドウィンの扱いは期待していたものとはいささか違っていました。当時ゴールドウィン支配下のスターの中でダニー・ケイの人気が急上昇していました。ゴールドウィンは彼をエディー・カンターの後継者と考えます。ケイは正規にダンスのトレーニングを受けてはいませんが、その動きのセンスの良さには天賦のものがあり、プロのダンサーをバックに踊るとダンスが引き立って本物らしく見えるという妙な個性が有りました。

 ヴェラ=エレンは彼のダンスの引き立て役として使われたのです。

 彼女のデビュー作、「ダニー・ケイの天国と地獄」(1945)ではケイ、ヴァージニア・メイヨーに次ぐ三番手の扱いです 。しかしゴールドウィンの扱いにもかかわらず、映画が封切られると彼女の人気が高まり、ファンレターが殺到。格が上の二人よりレターの数が多くなります。その結果、次の 「ダニー・ケイの牛乳屋」(1946)では三番手ながら共演者格に格上げされます。
 4月に映画が封切られると、彼女のダンスは様々なメディアで絶賛されます。「エネルギーの固まり」とも、「子猫のように人の気を引き、香水のように女らしい、春風のようにやさしい、はにかみ屋の少女。」とも形容されたのです。また意外なことに、ハリウッドのセクシー女優トップ10の一人にも選ばれています。
 しかし彼女には、単なるスペシャルティ・ダンサーや清純な女の子役に満足せず、台詞の多いドラマチックな役をやりたいという強い希望があったのです。

 ハリウッドになじみ始めたヴェラ=エレンは、新生活を謳歌します。旺盛な食欲を見せ、舞台や私生活の苦労で一時落ち気味だった体重も50kgにまでもどります。
当時、彼女は
「ニューヨークにいるときはハリウッドの怖い噂ばかり聞かされたけれど、来てみればそれはほんの一部であることがわかった・・・・・・映画界はとても素晴らしいところ。」
と語っています。

 茶色の瞳にシルバー・ブロンドの髪の女の子はハリウッドでめきめき頭角を現していったのです。

 しかし、二作続けての大ヒットにもかかわらず、ゴールドウィンは彼女を認めてくれませんでした。次回作は二十世紀フォックスに貸し出され、”Three Little Girls in Blue ”(1946)に出演することになります。作品自体は平均的な出来映えですが、彼女のスペシャルティ・ナンバー”You Make Me Feel So Young”(シーモア・フェリックス振付)は「映画史に残るダンスナンバー」だったようで、現在「忘れられた傑作」と言われているそうです(本にはそう書いてあるがビデオもDVDも出ていないので確認のしようがありません)。
 続く作品もフォックスに貸し出され、” Carnival in Costa Rica ”(1947)に出演。有名なバレエ・ダンサーで振付家、レオニード・マシーンの振付けに彼女も期待しましたが、結局失敗作となります。
 
 ゴールドウィンがヴェラ=エレンを認めようとしない原因の一つに、彼女の離婚問題があります。彼女とロバートが正式に離婚したのは1946年2月です。この時期彼女の離婚がマスコミでも取り沙汰されます。しかしこのことは年齢詐称ともからんで少しやっかいなことになるのです。当時彼女は公称二十歳。ゴールドウィンは「サミュエル・ゴールドウィン・ダンシング・スター」と呼ばれる女優が二十歳の若さで離婚することに、ゴールドウィンの名声にも傷が付くと考えたようです。
 フォックスは彼女のコメディーセンスを評価し、次回作への出演を要望しますが、ゴールドウィンは貸し出そうとしません。1947年にはコムデン=グリーンの脚色でブロードウェイ・ミュージカルの映画化”Billion Dollar Baby”に主演させる構想もあったようですが、実現には至りませんでした。
 さらに、離婚後スタジオは彼女をさまざまな男性スターと付き合わせようとしますが、宗教的理由もあり彼女は拒否。言いつけに従わず離婚問題で騒がせた彼女に対しゴールドウィンは気分を害し、彼女との契約を解除する決心をします。


 ” Carnival in Costa Rica”の失敗の後、解雇されたヴェラ=エレンはフォックスとの契約もうまくいかず、しばらく仕事にあぶれることになります。しかし「何か新しいことを常に勉強したい衝動に突き動かされている」彼女は、この自由な時間を有効に活用します。きちんとした演技がこなせるよう正式な演技の勉強を始めるほか、速記やスペイン語、ドイツ語、フランス語の勉強まで始めています。

 一方、1948年ごろからテレビの台頭が明らかになってきます。家庭にいながらにして楽しめるテレビの人気が高まると、映画やミュージカルの衰退が始まっていきます。
 ヴェラ=エレンはこの傾向を見据え、
「ミュージカルをいつも作っているスタジオで自分のダンスの才能を役立てたいし、演技にも挑戦したい。とにかく、自分を今よりもっと向上させていかなくては継続契約の望みはない」
と考えたのです。

ヴェラ=エレン その5「出会いと別れ」2007年10月06日 22時34分49秒


1942年、ハイタワー兄弟と。
中央がロバート、右ルイス。

 ”Panama Hattie”公演期間中にヴェラ=エレンは結婚します。相手は”Higher and Higher”出演時に知り合ったダンサーのロバート・ハイタワー。新郎23歳、新婦19歳でした。
 ロバートは兄(?)ルイスと「ザ・ハイタワーズ」を結成し、恵まれた体を生かしたアクロバティックなダンスで高い評価を得ていました。しかし母アルマには、この結婚が気に入らなかったようです。主な理由は、才能ある娘にとって物足りない相手だったことや、彼の気の短さや乱暴な面が心配だったことです。

 ヴェラ=エレンは1942年6月、ロジャース=ハートの”by Jupiter”に出演。レイ・ボルジャーのダンスの相手を務め、一緒に出演したハイタワー兄弟ともども批評家から高い評価を受けます。
 続いて1943年11月からは、再びロジャース=ハートの"A Connecticut Yankee”に出演。1927年に上演された作品の再演ですが、キャメロットの侍女という大きな役をえて様々な新聞・雑誌で絶賛され、ハリウッド行きのきっかけともなります。

 彼女の元へは本公演前のフィラデルフィア公演中から、映画会社のスカウトが次から次へとやって来ます。最終的にはサミュエル・ゴールドウィンと契約することになりますが、出した条件は三つ。「それなりのギャラ(週給千ドル)」、「大きな役」、そして、「スクリーンテストは無し」でした。


 この時期、ヴェラ=エレンに対する周囲の評価や印象はどのようなものだったのでしょうか。

 まずは1944年2月の「ルック」誌を見てみましょう。そのシーズンに大活躍した四人の新人女優を選んでいますが、その四人とは・・・・ジョーン・マクラッケン(オクラホマ)、ソノ・オーサト(One Touch of Venus)、ベティ・ギャレット(Jackpot)、そしてヴェラ=エレンです。
 さらにベティ・ハットンと比較し「(ヴェラ=エレンは)ベティのような力みがなく、もっと観客の気を引きつける」とも記されています。

 上記四人のうちの一人ベティ・ギャレットは、後に当時を振り返り次のように語っています。

 「彼女は素敵だったわ。小柄で、元気が良くて朗らかで、ベタベタしてなくて。映画入りしてからみたいにガリガリにやせてもいなかったしね。"A Connecticut Yankee”じゃ本当に素晴らしかったの。それからダンサーとして足が最高にきれいだったわね。」

 知人のジム・シュレーダーはこの頃の彼女を次のように証言しています。

「顔も体も丸くてとても女性らしかったし、みずみずしくてとてもきれいだったな。いつも一生懸命で、話していると目が輝いてたんだ。動作はとても生き生きしていたよ。」
 当時の彼女は、まだ母親のダイエットの重圧に苦しむこともなく、食欲も旺盛でした。標準的な体重を維持しながら脚や肩、背中の筋肉が発達していたため、まるで女性ボディビルダーのような体だったとも言われています。


 さて彼女には芸能界での生き方のロール・モデルにしていた人物がいました。当時人気のあったヴェラ・ゾリーナです。ヴェラ・ゾリーナはクラシック・バレエの出身ながら、ミュージカル、オペレッタ、映画と何でもこなす人でした。彼女にあやかり、しかも自分の名前を目立たせるため、ファーストネームにハイフンをいれて芸名にしたと言われています。
 映画界入りに際しての母親のマスコミ向けの話では、「娘が生まれる前にハイフンのはいった名前が映画館の巨大なライトに照らされている夢を見た」ことになっています。しかし実際は”By Jupiter”のころからこのハイフン入りの名前が使われていたようです。


 彼女の結婚生活はそれなりにうまくいっているようにみえました。しかし、ヴェラ=エレンの家族、特に母のアルマは、ロバートが娘をキャリアアップのための踏み台にしていると考え、彼女の人格がないがしろにされているのではないかと心配したようです。

 徴兵された兄のルイスがノルマンディーで戦死すると、ロバートは仕事の比重を自分の好きな飛行機の操縦に移していきます。その結果、ヴェラ=エレン自身が家族の稼ぎ手にならざるを得ず、結婚は重荷となっていきます。
 さらに、ロバートのやきもちは乱暴な性格ともあいまって大きな問題になってきます。彼女は恐怖感を抱いて母のところに逃げ込み、離婚届を準備しました。

 ジム・シュレーダーは言っています。

「彼らの離婚には驚かなかったよ。役者同士の結婚は二人が上を目指して努力しているうちはうまく行くんだ。でも片方がブレイクすると結婚生活に緊張関係が生まれるんだ。離婚も珍しくなくなるのさ。」

 

1944年、シカゴ公演終了後、彼女は映画界入りします。

ヴェラ=エレン その4「肉体改造」2007年10月03日 00時38分21秒

17歳

17歳の彼女



 ツアー終了後ニューヨークにもどったヴェラ=エレンは、母親とアパ-トを借り、ダンスの勉強を続けます。才能を信じた母親は、授業料のため秘書として働きながら彼女を支えていきます。
 この時期、彼女は多くの舞台のオーディションを受けますが、合格することはありませんでした。主な理由はその体格にあります。実はそれまでの二年間で、彼女の身長の伸びは1インチにも満たず、16歳でありながら、身長137cm、体重34kgにすぎなかったのです。
 どれほど踊りがうまくても、これでは役を手に入れることはできません。

 あるプロデューサーはオーディション終了後にこう言ったそうです。

「君のダンスもセリフ回しもすばらしい。だが他の女の子の隣に立ってごらん。小人に見えちゃうよ。・・・・・・・・すまんね。」

 ここから彼女の努力が始まります。なんと自分で身長を伸ばそうと決意し、それを実行に移したのです。
 ダンスの経験を生かして編み出した方法は、戸口にぶら下がることから、ハイキックや床の上でのストレッチなど様々ですが、これらの動作を毎日三十分間実行した上に、お祈りも欠かしませんでした。
 果たしてそのかいがあったのか、21歳の時には身長が164cmにまで伸びています。

 ここまで大きくなれた理由が本当に彼女の努力や祈りのせいなのか、或は単に成長期が遅く始まっただけなのかはわかりません。しかし、自分の意思で肉体を変えられるという確信は、母親の行った食事法やダイエットともあいまって、その後の彼女に大きな影響を与えることになるのです。

 
 18歳になり体も成長した彼女は、ダンスにも自信を深めていきます。そこで、当時ブロードウェイの有名なナイトクラブ”Casa Manana”をとりしきるビリー・ローズの「ライン・ガールズ」のオーディションに応募。大胆にもコーラスガールを拒否し、一人で踊るスペシャルティ・ダンサーを希望したばかりか、その座を射止めることになります。
 Casa Mananaの舞踊監督はロバート・オルトン。後に映画界でも彼女の主要な作品の振付を担当することになります。

 ナイトクラブやレストランのショーで経験をつんだヴェラ=エレンは、再びブロードウェイのオーディションに挑戦。その結果、1939年にジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン二世の”Very Warm for May”、1940年にはリチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの”Higher and Higher”にそれぞれ役を得ますが、残念ながらいずれも公演は短期間で終了してしまいます。
 しかしロバート・オルトンの世話で、その年の10月、エセル・マーマン主演”Panama Hattie”にリード・ダンサーとして参加することになります。

 初めてのロングランとなる作品です。

ヴェラ=エレン その3「バニー」2007年10月01日 00時27分33秒


10歳の彼女、あだ名は「バニー」
人を惹きつける愛らしさは天賦のものです。

 
 ダンスの勉強を始めたヴェラ=エレンはたちまち頭角を現し、十代の初めにはすでにスタジオの講師を務めるまでになります。ダンスだけに限らず、学校の勉強でもすべての科目に優秀な成績をあげ、また応援バンドのリーダーを務めるなど常に皆の注目を集める存在でした。
 またこの頃からスターになるという目標をもっていたようです。

 彼女が多くのことに秀でていた理由の一つは、後に自ら「始めたことはなんでも完璧にこなしたいという欲望の犠牲者」と公言するほどの完全主義です。
 彼女の常に絶やさぬ笑顔や、人に優しく思いやりのある性格は父親から受け継いだようですが、この完璧主義はどうも母親からのようです。

 母親のアルマは「いつかひとかどの事を成し遂げてみたい」という強い意志を持った人でした。
 何ごとにも几帳面でしたが、なかでも食事療法には熱中し、ヴェラ=エレンのダンサーとしての体形を作るために当時提唱されていた食事法を施します。これは塩、パン、パスタ、シリアルにレモンやグレープフルーツなどを避けるという、現在の栄養学の観点から見れば誤ったものだったようですが、こんなことも影響したのか、一時学校で「彼女が小さいのは母親がピンクのバナナを食べさせてわざと大きくならないようにしているからだ」という噂が流れたそうです。

 こんな母親にとって、才能に溢れ人を惹きつけずにおかない娘は、自分の願望を成し遂げるための大切な対象であったと思われます。娘への期待がますます大きくなるとともに、仕事も少なくこれといった目標も持たない夫に対する失望が明らかになっていきます。

 1936年、スタジオの勧めでニューヨークで開かれたダンス教師のための講習会に出席したヴェラ=エレンはその感激が忘れられず、二ヵ月後に父を説得し、母親と二人再びニューヨークへ向かいます。そこで当時有名だったラジオ番組「ボウズ少佐のアマチュア・アワー」に出演し認められると、翌’37年1月に再び同ショーに出演。そこからボウズ少佐の”All Girl Unit”に参加し全米を巡演することになります。

プロの世界が目の前にあります。




 
 ダンス・スタジオ時代、熱心な彼女は近くに住む同年代の子供たちをダンスのレッスンに誘いスタジオに通わせます。そのうちの一人に、近くの町に住むドリス・カペルホフという女の子がいました。

 後のドリス・デイです。

ヴェラ=エレン その2 「ちっちゃい」2007年09月29日 00時53分55秒

1934年

左端がヴェラ=エレン。
これで13歳?!!

「ダンスが上手かったから好きになったのか、好きだから上手くなったのか、よくわからないのよ。たぶん両方かもね。」


Vera Ellen Westmeier Rohe(ヴェラ エレン・ウエストマイアー・ローと発音するらしい。本名にハイフンはない)は1921年2月、オハイオ州シンシナティ近郊のノーウッドに、父マーチン、母アルマの一人娘として生まれます。ノーウッドは元来ドイツからの移民が集まった地域で、彼女の両親も共にドイツ移民の子孫です。
近隣で話される言葉もドイツなまりが強く、後に彼女自身「アメリカにいながら外国生まれのような気分だった」と語っています。双方の家系ともに裕福ではありませんが、父のマーチンはピアノ調律師の仕事をまじめに務め、笑顔を絶やさぬ人でした。

母親の家系の遺伝なのか、ヴェラ=エレンは 幼少期から非常に小柄で、小学校では「同級生より頭一つ小さい」と言われるほどの体格だったようです。さらに、内気で本に埋もれるのを好む性格だったため、心配した両親は、彼女が9歳のときに二つのことを勧めます。ヤギのミルクを飲むこととダンスのレッスンでした。

 「私は本の虫って言われてたの。母がシンシナティのダンスの先生の処へ連れてってくれたのは9歳の時ね。あんまり立ち振る舞いが不器用だったから、父も母も私がもっと洗練されてほしかったんでしょう。
 行ってみてわかったのは、私はダンスが好きだし、みんなも私を観るのが好きみたいだってことね。それで通ってみることに決めたの。」

 彼女の通ったのはElenor and Harry H. Hessler's Mount Adams Dance Studioという長い名前のダンススタジオ。丁度大恐慌のさなか、贅沢品のピアノの調律が減ってお金のなかった父親は、調律を無料で引き受ける代わりに、スタジオの月謝を免除してもらったそうです。

ヴェラ=エレン その1「別人」2007年09月25日 00時12分36秒

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「ダニー・ケイの牛乳屋」(1946)の宣伝写真。
MGM時代の彼女とは別人のようです。


 ヴェラ=エレンのダンスを観ていて、私の頭に思い浮かぶイメージは「下位に取りこぼしの少ない大関」です。
 それなりの実力を持っていて欠点というほどものもないが、観客の心に強く迫るだけの何かが技術や身体能力も含めて決定的に不足している。丁度、「いつも十勝前後を挙げ、取り口は正攻法。下位の力士には強いが横綱と当たると負けてしまう大関クラスの実力」が彼女の踊りを評価するのに最適だというのが私の考えです。

 その「隣のお姉さん」的な愛らしさも含め、タップからモダン、ジャズ、ボールルームダンスと幅広いレパートリーをそつなく、一定以上のレベルで踊る実力は評価しなくてはいけないのでしょうが、あまりそつがなさ過ぎると書きようがないし、まして書こうという意欲が湧いてきませんでした。
 
 ところが彼女について調べているうちに気が変わります。
 彼女についての信頼できる詳しい資料は今のところ”Vera-Ellen: The Magic and the Mystery”(David Sorenら 著 2003年) しかない(ネット上の略歴もこれを参考にして書かれたものがほとんど)ようですが、これを読んでいて、彼女の人生の方が自身のダンスについて書くよりずっと面白いと気づいたのです。もちろんそれはフィルムの上に映し出されるヴェラ=エレン自身のダンスとも無縁ではありません。

というわけで、今回は上掲書を参考にしながら彼女の人生を辿ってみたいと思います。

 追々、これまでに出した彼女の写真がMGM以降とは別人のように見える理由も、名前に挿入された「ハイフンの謎」も明らかになるでしょう。

予告編 「誰?」2007年09月23日 23時25分22秒


近日公開 (・・・・・・・・たぶん)