ドナルド・オコナー その4 「貸し出し」2007年06月03日 02時06分38秒

something in the wind

”Something in the Wind”(1947)より
ユニヴァーサル復帰第一作


 除隊後適当な企画がなかったため、ドナルドは一時舞台へ復帰します。
1947年スクリーンへ戻った彼は、主役のはれるコメディアンとしての地位を確立し、コメディー映画やミュージカルに出演。さらに1950年からは、喋るラバ「フランシス」シリーズ(後のTVシリーズ「ミスター・エド」の原型。こちらは喋る馬ですが・・・)に主演し、大衆的な人気を不動のものにします。「フランシス」シリーズはドナルドの主演で55年までに計6作を制作し(最後の7作目はミッキー・ルーニーが主演)、低予算の作品ながらユニヴァーサルに多大な利益をもたらします。
またTVでも「コルゲート・コメディー・アワー」のホストの一人を1951年から54年まで務めるなど活躍し、歌に踊りに演技にと、その多彩な才能を賞賛されるようになります。しかし当時のユニヴァーサルには彼の才能を十分に発揮できる水準のミュージカル映画を作る能力がなく、その目的を果たすためには他社への「貸し出し」に頼ることになるのです。
 
1950年の多忙な中、ドナルドは週給一万ドルで五週間の英国ツアーを行いますが、ロンドンのパラディアム劇場に出演中、MGMから電話がかかります。ユニヴァーサルとは話がついたので「雨に唄えば」に出演してほしいとの内容でした(出演料は五万ドル)。
 もともとジーン・ケリー扮する主人公ドン・ロックウッドの相棒コスモ・ブラウンの役は、アーサー・フリードの構想では「巴里のアメリカ人」に続きオスカー・レヴァントが演じるはずでした。しかし制作を進める中で作品の雰囲気が明らかになると、レヴァントの辛らつさが全体の明るさにマッチしないと、ケリーやスタンリー・ドーネンは考えるようになります。脚本のコムデンとグリーンも同意見でした。
 四人はフリードを説得し、なんとかオコナーを出演させることに成功します。ケリーにはオコナーと二人でコメディータッチのダンスを踊る構想があったのです。作品のストーリーや雰囲気にマッチした二人の配役が決定したとき、最終的な成功は半ば約束されることとなります。

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